哲学的な彼女
嫌な事や辛い事があった時、僕は彼女を思い出す。
彼女はいつも不意に現われてはからかい口調で僕に話しかける。
僕が悩んだり落ち込んだりすると、まるで計ったかのようにソッと声を掛けてくれるのだ。
「君は、実に馬鹿だな」
こんな調子で、普段のキレ長で涼しげな瞳を更に細め、心なしか呆れを含んだ笑みに緩めながら。
野良猫の方がまだ可愛げのあるような反応を返すだろうに、凹んだ心へ対し容赦なく尖った言葉を与えてくる。
でも、それが僕にとっての救いである事を、きっと彼女は知っているのだ。
人生は上手くいかない。
なるようになるだなんて楽観主義は書類審査であえなく落選。
目の前が真っ暗になる出来事を何度も記憶に刻んできた。
両親が離婚したり、八つ当たりに母親から煙草で焼きを入れられたり。
理不尽に親戚から嫌われたり、給食費泥棒の濡れ衣を着せられたり、それで虐められたのもあったな。
たまたま近くに居たからって校舎のスプレー落書きは僕の所為じゃないのに僕の所為になる。
勝手に因縁を付けられて喧嘩を仕掛けられても教師に怒られるのは主に僕なのだ。
あと、好きな子から陰口で気持ち悪いってのも結構ダメージがあった。
僕の持っていた清純なイメージは見事粉砕されたな。
とかく、あれやこれやと人生は上手くいかない。
そんな中で彼女だけはいつだって糞のような僕を正面から見てくれた。一人でなくしてくれた。
僕が悪くない事を肯定しながら、けれども甘やかしてはくれない所も良かった。
生きる事に絶望を感じていたあの頃、あの日、あの場所を僕は覚えている。
何と言ったのかさえ、僕の脳はハッキリくっきり鮮明に思い出せる。
「君は、実に馬鹿だな」
人の少ない放課後の図書室で亡羊と夕陽を眺める僕の前に現われ、初対面であるにも関わらず誂えた様な自然さと気安さで、よく出来たキャッチコピーに似た簡潔さを持って僕の心を刺したのだ。
怒りに立ち上がっても彼女は猫のようにするりと僕の手をすり抜けていく。
彼女は拍子抜けした僕を尚もからかい、気が付くと沈んだ心はどこかへ消えていた。
それから、嫌な事や辛い事があった時、彼女は現われる様になった。
あの日から彼女は確かに孤独からの救いになったのだ。
何年生なのか、何組なのか、何で僕に話かけたのかもどうでも良かった。
名前さえも僕は気にしなかった。必要がなかった。
不意に現われては消える彼女が居たという事実が、僕の支え。
それだけで良かったからだ。
「君の不幸はサイコロで良い目を出せないというだけの話で、
君の不幸を気にしてくれる人間は居ないわけだよ、残念ながら。
そんな君はこのまま嘆き続けても良いし、怒りを叫んでも良い。
何故なら誰も君に興味が無いからだ、やったじゃないか、拍手してやる、おめでとう」
「無関心であれば良いのに、気にするから苦しむのさ。
自分の分を弁えて機械のように淡々過ごす弱さを持っても良いんじゃないかな。
ほら、大人達が言う社会の歯車だってのうのうと幸せを甘受してたりするだろう。
そしたら君をゾンビだと軽蔑するけれどね、私は」
「昆虫の意思、あるいは意識について考えた事はあるかい?
私は無い。こういうのは学者にでも任せるもので、私にとって時間潰しにしかならない。
つまりはまぁ、自己と世界もそんなもんで済むと思うよ」
「人間は死んだらただの塊になる。
ということは塊を人間足らしめるのは生きるという事だけれど生きてるって何?
……ってなっていくわけだ。
でも、人間の元はただの塊だというのを憶えておくと、他人の嘲りや蔑みも空気の波。
急につまらない物質に見えてくるね、私と君も、視界の全部が」
彼女は小難しい言い回しで、意味が有るのか無いのか当時の僕には良く分からない話を沢山してくれた。
それらは確実に僕の深い部分を形成するのに貢献したのだろう。
僕は世界との間に必要な距離を置けるようになった。
彼女の功績だと思う。
高校の卒業式直前、彼女にこう言われた。
「今日だけは素直に祝うよ、おめでとう。
立ち上がると決めたようで何よりだが少し残念でもある。
きっともう私は必要無くなったんじゃあないかな。
また会う日が来る事を、望まないように日々を過ごしてくれ」
以来、彼女には会っていない。
けれども、近い内にまた不意に彼女は姿を現すだろう。
僕は職を失った。
特に失敗したわけではなく、会社が倒産と良く有る話。
不況から再雇用先も見つからず貯蓄も多いとは言えない。
目の前が真っ暗になるとはまさに今の状況だ。
希望も何も無い。
出掛けにゴミ箱へ放った空き缶をダンボール城の住人が回収するのを横目に、重くなった足を引き摺って公園を後にする。
10分後、僕は自分の城に到着し、1kのオンボロアパートの鍵を開けた。
「君は、実に馬鹿だな」
待ち構えているとは思っていたよ。
ほら、あの頃と同じように。
不意に現われていつものからかい口調で僕に話しかけるのだ。
僕の頭の中の『哲学的な彼女』は。
存在自体が『哲学的』な彼女。
それが自分が生み出した幻影だと分かっていても『僕』は縋ってしまう。
けれど自分を叱責し、立ち上がらせるために生まれた『彼女』であって良かった。
自殺へと近づけようとする『彼女』が生まれていたかもしれない。
これは『僕』の芯にある強さが、真に生きる事を望んでいたからだろうか。
※「哲学的な彼女」特別企画への投稿作です。短編の練習も兼ねて投稿しました。