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「補給係の分際で勇者の旅に口を出すな」と追放されましたが、双子月が昇る今夜が出発期限ですので、どうぞそのまま二百七日分の旅をお続けくださいませ 〜前世は物流管理の派遣社員でした。荷物の中身、確認なさい

作者: uta
掲載日:2026/10/04

「補給係の分際で、勇者の旅に口を出すな」


紙束が、床に叩きつけられました。


三十七枚。綴じ紐が切れて、七枚目から十九枚目までが扇のように広がる。わたくしが三晩かけて作成した『魔王城遠征・物資計画書』でございます。


冒険者ギルド本部、大広間。夕刻の鐘が鳴ったばかりで、受付前には順番待ちの冒険者が二十人ほど。彼らは一斉に振り返り、そして一斉に目を逸らしました。


『黎明の剣』のリーダー、ガイウス・アルドレイ伯爵令息。金髪碧眼、身の丈六尺。剣を抜けば魔獣を一刀で断つ、本物の英雄です。


ただし、数字が読めません。


「明け方には出発だ。なのに貴様は、何だこの荷の量は。運搬袋が十四個? 俺たちは行商か?」


「十四個で最小でございます。灰の回廊は片道十一日、水場が──」


「口を出すなと言った」


ガイウス様の靴が、十九枚目を踏みました。インクが少し滲む。


『伝票を読まない現場責任者は、前世でも異世界でも同じ顔をしている』


そう、わたくしには前世の記憶がございます。


日本という国の、三十二歳。中堅物流会社の派遣社員。倉庫の在庫管理と配送ルート設計を七年。深夜残業の帰り道、歩道に突っ込んできたトラックを避けた先が、ここでした。


つまりわたくしは、二つの人生を合わせて十四年、荷物を数えて生きております。


「それに」


横から甘く伸びる声。聖女枠のミレーユ・ファンレーヌ様が、栗色の巻き毛を指に巻きながら、わたくしを見ずにおっしゃいました。


「わたくし、この方の目で見られると気分が悪いんですの。いつも数えてらっしゃるでしょう? 人の持ち物を、じいっと」


数えております。それが仕事ですので。


「ガイウス様。補給など、宿場町で買えばよろしいのでは? 荷物がないほうが、勇者様らしく颯爽としておりますもの」


「……そうだな」


ガイウス様が顎を上げました。


「セラフィーナ・ルウ。お前はパーティから外れろ。荷物持ちの下が、指図するな」


荷物持ちの下。七年間、わたくしの役職名として定着した呼称です。


わたくしは膝を折り、床の紙を拾いました。


一枚ずつ、順番通りに。三枚目の角が折れていたので、指の腹で伸ばす。十九枚目の靴跡は、外套の袖で埃を払う。


最後の一枚を胸に抱え、立ち上がり、微笑みました。


「承知いたしました。では、パーティ登録から抜けさせていただきます」


「勝手にしろ」


ガイウス様は鼻で笑って、背を向けました。


窓の外。大月ルーナと小月リィナが、ゆっくりと重なりつつあります。


今夜は双子月の夜。


二百七日に一度だけ訪れる、ギルド契約が神格印として魔力契約化される夜。


──彼は、一度も読んでいません。


二百七日前のあの夜、署名欄だけ書いて席を立った、あの契約書を。


わたくしは拾い上げた計画書を裏返しました。表紙の裏、右下隅に、小さく印字された数字の列。


【TO-00207-S.Lou】


それを確認して、受付へ向かいました。


◇


受付の窓口には、ノエル・ハーディさんがいらっしゃいました。


そばかす、丸眼鏡、結い上げた髪に鵞ペンを三本。王都随一の書類さばきで、『ギルドで一番早く印章を押す女』と呼ばれる方です。


「脱退届を、お願いいたします」


ノエルさんは何も訊かず、引き出しから羊皮紙を抜きました。もう用意されていた、という速さで。


「はい。こちら三枚目にご署名を」


「……もう、ご用意が?」


「インク壺の蓋も、開けてございます」


わたくしは署名しました。セラフィーナ・ルウ。七年間で何千回と書いた字です。


背後で、ガイウス様の笑い声が聞こえます。仲間の戦士たちに何か話している。「重荷が減った」という単語が聞こえました。


──ああ。


ここで黙って帰るのが、七年前のわたくしでした。


帳面を抱えて頭を下げて、夜の道を歩いて、明日も同じように数えて。前世でも、同じことをしておりました。棚卸しの数が合わなければ派遣の私のせい。ルートを組み直して経費を三割削減しても、誰も名前を覚えていない。


怒鳴ったことは、一度もありません。


でも。


今夜は、双子月の夜です。


「ノエルさん」


「はい」


「ついでですので、一つよろしいでしょうか。記録の確認をしたいのですが」


ノエルさんの丸眼鏡が、わずかに光りました。


「……どうぞ。ギルドは、記録の閲覧を拒みません」


彼女が三冊の台帳を、音を立てて卓上に置きました。ずいぶん、手前に。ガイウス様の背中のほうへ向けて。


わたくしは腰帯の革表紙の帳面を外し、三枚の紙を抜き出して並べました。


スキル【目録(インベントリ・リスト)】。


物を収納する力はありません。見た物の名称・個数・劣化度・消費期限を一覧化し、七年分保持するだけ。戦闘力ゼロ。鑑定士協会からは『倉庫番の劣化版』と笑われています。


ですが、七年分です。


「ガイウス様」


声は張りませんでした。ただ、広間がちょうど静かになった瞬間に、言葉を置いただけです。


「出発前に、三点だけ引き継ぎをさせてくださいませ。補給係の義務でございますので」


ガイウス様が振り返りました。


「手短にしろ」


「はい。三分いただければ」


実際には、二分で足りました。


◇


「まず一点目。『重すぎる』とおっしゃった荷袋についてです」


わたくしは一枚目の紙を、指先で滑らせました。


「第三から第七荷袋、中身は水魔石十二個と解毒薬四十八本。総重量、四十一ストーン。たしかに重うございます」


「だから減らせと言っている」


「灰の回廊は、片道十一日でございます」


静かに続けます。


「王都から魔王城へ至る唯一の経路。全長百三十四リーグ。水場、ゼロ。瘴気、常時発生。呼吸するだけで毒が溜まりますので、解毒薬は一人一日一本。六名で十一日、往復で百三十二本──わたくしが四十八本しか積んでいないのは、残りを最後の村で補充する計画だったからです」


「なら宿場町で買えばいい。そう言ったはずだ」


「その最後の村の名は、ヴェルナ村と申します」


わたくしは二枚目を重ねました。


「三年前の霜月、魔獣の襲撃で全焼。住民は王都へ避難。現在、無人でございます。街道もそこで途切れております」


広間が、しん、としました。


「……嘘だ」


「ギルド掲示板の東壁、上から四段目。『ヴェルナ村・封鎖継続』の通達が三年間貼られたままでございます。年に四度、ノエルさんが貼り替えていらっしゃいます」


「三年で十二回、貼り替えました」


ノエルさんが、誰にともなく言いました。


ガイウス様が腰の地図筒に手をやり、そして──止まりました。


開いても、読めないからです。


『地図が読めないのは恥ではありません。読めないまま部下を追放するのが、恥でございます』


「二点目に参ります」


◇


「『宿場町で買えばいい』というご判断について、予算の確認を」


三枚目の紙を、わたくしはミレーユ様のほうへ向けて置きました。


「遠征予算残高、金貨三十二枚。現時点での確定数字でございます」


「……三十二?」


ガイウス様の声が、初めて低くなりました。


「予算は五百枚あったはずだ」


「はい。五百枚を計上し、過去二百七日で装備更新費として金貨四百十九枚を消費、残余四十九枚から街道通行料十七枚を控除し、三十二枚でございます」


「四百十九枚も装備に使うか! 俺の剣は買い替えていない!」


「ええ。ガイウス様の装備更新費は、この二百七日で金貨九枚。研ぎ代と革帯の交換のみでございます」


わたくしは、視線を動かしませんでした。動かさないことのほうが、よほど雄弁です。


ミレーユ様の指が、喉元の宝石に触れました。


「……なんですの、その目」


「数えている目でございます。気分が悪いとおっしゃった、あの目です」


わたくしは紙の下段を指しました。


「装備更新費四百十九枚のうち、三百八十枚。内訳は、『聖印の再祝福』名目で月光石の首飾り一点、金貨百二十枚。『詠唱補助具』名目で耳飾り三対、計金貨九十六枚。残りは──白鳥亭、銀の鹿亭、王都南区の宴席が十九回でございます」


「宴席は、その、パーティの親睦で……」


「十九回のうち、わたくしが呼ばれたのは零回でした。これは記録ではなく、感想でございますが」


広間の冒険者たちが、息を呑む音。


「い、言いがかりですわ! 証拠は──」


「領収の写しは、ギルド財務室に全て保管されております。番号は連番ではございませんので、一件ずつ申し上げますね」


わたくしは帳面を開き、指を当てました。


「EX-4471、EX-4488、EX-4512、EX-4530、EX-4544、EX-4551、EX-4566……」


「やめて」


「EX-4578、EX-4590、EX-4603……」


「やめてって言ってるでしょう!」


ミレーユ様の悲鳴が、天井に跳ね返りました。


わたくしは帳面を閉じ、微笑みました。


「残り十件ほどございますが。番号、読み上げましょうか」


ミレーユ様の顔から、血の気が引いていきます。宝石だけが、変わらず光っておりました。


ガイウス様が、わたくしとミレーユ様を交互に見ました。


「……ミレーユ。お前、そんなに」


「だ、だってガイウス様が、細かいことは任せると」


『細かいことは任せる』


その言葉を、わたくしは三度、聞いております。


──二百七日前の夜。


この同じ受付で、ノエルさんが差し出した契約書を、ガイウス様は三枚目まで捲りもしませんでした。


「署名欄はどこだ」


「こちらですが、第四条から第九条は重要事項ですので、お読みいただ──」


「細かいことは任せる。俺は剣を振るのが仕事だ」


さらさらと羽ペンを走らせ、外套を翻して出ていかれた。


その後ろ姿を見送って、わたくしは第四条を読み、しばらく考えて、そして──


何も言わずに、自分の名を書きました。


「三点目に参ります」


わたくしは言いました。


「最も大切なことを、申し上げます」


◇


窓の外。


大月ルーナと小月リィナが、ゆっくりと、ゆっくりと重なっていきます。縁がわずかにずれた二重円。あと数分で、完全に一つになる。


わたくしは、拾い上げた物資計画書を裏返しました。


「ガイウス様。この紙の裏、右下をご覧くださいませ」


「……数字が印字されているな。それが何だ」


「契約番号でございます。【TO-00207-S.Lou】。TOは、双子月の誓約(ツインムーン・オース)の略記」


ノエルさんが、卓上の台帳を一冊開きました。無言で、該当の頁を。


「……該当頁でございます」


「『黎明の剣』の携行物資一式──運搬袋十四個、水魔石、解毒薬、携行食、天幕、燃料、治療具に至るまで。二百七日前の双子月の夜、ギルドと締結された神格印契約により、その管理権限は補給係個人に紐づけられております」


「……個人?」


「はい。第四条。『物資の管理権は補給係の名義に帰属し、契約者本人の許可なく他者へ移譲できない』」


一拍、置きました。


「わたくしの名義でございます」


ガイウス様の口が、半分開いたまま止まりました。


「わたくしはたった今、パーティ脱退届に署名いたしました。脱退した以上、わたくしは『黎明の剣』の物資を貴方がたに引き渡す権限を持ちません。持ちたくても、持てないのです。神格印がそれを許しません」


「……荷は」


「一つも、持ち出せません」


誰かが、喉を鳴らしました。


「明け方の出発とのことでしたが、お持ちいただけるのは各自の武具と、身につけていらっしゃる装飾品のみでございます。天幕も、水も、解毒薬も、干し肉一枚も」


「書き換えろ! 今すぐだ!」


「書き換えは可能でございます」


わたくしは窓を示しました。


「双子月が完全に重なる夜に限り、ギルド本部にて。──次の機会は、二百七日後でございます」


「にひゃく……」


「本日が、その二百七日に一度の夜でございます。あと、そうですね」


ノエルさんが壁の砂時計を見ました。


「上の砂が、残り三分の一です」


「なぜそんな契約にした!」


ガイウス様が叫びました。声が、裏返っていました。


わたくしは、静かに答えました。


「あなた様が『細かいことは任せる』と、署名欄だけ書いてお帰りになったからです」


「そんな──」


「三度」


三本の指を立てました。


「二百七日前。四百十四日前。六百二十一日前。三度とも、同じお言葉で、同じ場所からお帰りになりました。わたくしは三度とも、第四条をお読みいただこうと申し上げました」


広間は、水を打ったようでした。


「わたくしは、任されたのです。ですから、任された通りにいたしました」


──これは意地悪ではありません。


前世で学んだ、たった一つのことです。


現場を守るのは、怒鳴り声ではなく、条文でございます。


◇


ガイウス様が、一歩踏み出しました。


先ほどまでの、広間を睥睨する英雄の歩幅ではありません。小さく、つんのめるような一歩。


「……セラフィーナ」


名を呼ばれたのは、久しぶりでした。七年で、十回あったかどうか。


「今のは冗談だ」


「はい?」


「冗談だと言っている。お前を外すなどと、本気で言うわけがないだろう。荷が重いと言ったのは、その、士気の話で……戻ってこい。すぐに脱退届を取り消して──」


手が、差し出されました。


剣だこのある、大きな手。魔獣を一刀で断つ手。


「セラフィーナさん」


ミレーユ様も、目を潤ませて寄ってきました。


「わたくしが悪かったわ。ごめんなさい。装飾品は、ええ、売りますわ。全部。だから、ね? あなたがいないと、わたくしたち、本当に──」


涙が、頬を伝いました。


美しい涙でした。本人は、たぶんこれが交渉術であることに気づいていません。気づいていないから、こんなに綺麗に流せるのです。


わたくしは、帳面を腰帯に戻しました。


そして、深く、丁寧に礼をいたしました。七年間、毎日していた角度で。


「いいえ」


顔を上げて、微笑みます。


「もう我慢はいたしません」


「な……」


「七年、数えて参りました。誰が何を食べ、何を使い、何を捨てたか。全部、記録してございます。そして今夜わかったのですが──わたくし、自分の分だけは、一度も数えておりませんでした」


窓の外で、二つの月の縁が触れ合いました。


「今夜は、わたくしが自分で行き先を選ぶ夜ですので」


差し出された手を、わたくしは取りませんでした。


代わりに、もう一度、礼をいたしました。


「──どうぞそのまま、旅をお続けくださいませ。荷がなくても、宿場町はあるのでしょう?」


ガイウス様の手が、空中で止まりました。


そして、ゆっくりと下りました。


『この人に、憎しみはありません』


不思議なことに、本当にないのです。


父君の遺言が『英雄になれ』の一行だけだったと、酔ったときに一度だけ聞きました。彼はそれ以外を教わらなかった。英雄らしく見えることには全力で、英雄を支える仕組みには一片の興味もなかった。


ただ、それだけのことです。


それだけのことで、人は無人の村へ十一日かけて歩いていくのです。


◇


そのとき、双子月が完全に重なりました。


大広間の床に、二重の光が落ちます。輪郭のわずかにずれた、白い円。その円の中に、一人、立っている方がおりました。


銀灰の髪。薄氷色の竜眼。こめかみから首筋へ抜ける、鱗の名残。


「……ドラグノート辺境伯」


誰かが呟きました。


竜人の辺境伯、ヴァイス・ドラグノート。通称『氷面の将』。北辺境の魔物討伐で二度、軍を全滅から救った男。立っているだけで部屋の温度が下がると噂される方。


その方は、ずっとそこにいらっしゃいました。


書類束を手に、大広間の隅で、黙々と読んでいた。わたくしは気づいておりました。気づいて、数えておりました。書類、十九枚。半刻で十九枚は、読むのが速い方です。


将軍は無言で歩いてきて、卓上の三枚を覗き込みました。


ガイウス様が身を固くします。


ですが将軍は、彼のほうを一度も見ませんでした。


紙面に、指を置く。


「……劣化度を、日別で取っているのか」


低い声でした。


「はい。干し肉は湿度で三日ごとに記録が変わりますので」


「解毒薬の残効も、瓶ごとに分けているな」


「製造窯が違うと、効きに差が出ます。第七窯のものは二日短く見ております」


将軍の眉が、わずかに動きました。無表情が、そこだけ、ほどけるように。


「第七窯は火が弱い」


「ご存じでしたか」


「三年前に、北辺境で二十人死んだ」


数秒、沈黙がありました。


将軍は身を起こし、初めてわたくしの顔を見ました。


「君は、何ができる?」


わたくしは、少し考えました。


正直に答えるべきか、大きく言うべきか。前世の面接なら、後者を選んだでしょう。


ですが、この方には。


「七年分の在庫と、十一日分の水と、誰が何を食べたかを覚えていられます」


「戦えるか」


「一切」


「魔法は」


「使えません。スキルは【目録】のみ。収納もできません。見て、数えて、覚えるだけです」


再び、沈黙。


広間の誰もが、息を詰めておりました。


将軍の口の端が、ほんのわずかに上がりました。


「ならやってみろ」


「……は」


「北辺境軍、兵站長の席が空いている。三年空いている。誰も座れなかった」


わたくしの指先が、冷たくなっているのに気づきました。緊張したときの、前世からの癖です。


「ノエル嬢」


将軍が呼びました。


「新規の誓約書を。今夜のうちに」


「──もう、ここに」


ノエルさんが、すでに羊皮紙を広げておりました。


インク壺の蓋は、また、開いておりました。


◇


羊皮紙の上で、鵞ペンを持つわたくしの指が、少し震えました。


寒いからではありません。


七年間、他人の名前の下に自分の名を書いてきた紙と、今夜のこれは、違う紙だからです。


風が窓から入り、羊皮紙の端がめくれました。


大きな手が、それを押さえました。


熱い、と思いました。


竜人の体温は、人族より高いのだそうです。わたくしの冷えた指の縁に、その手の側面が触れておりました。触れていることに、たぶん向こうは気づいていません。


「……署名を」


「はい」


セラフィーナ・ルウ。


書き終えた瞬間、羊皮紙の中央に神格印が浮かびました。二重の円が重なった意匠。掌をかざすと、湯気の立つような、ほのかな温かさがございました。


窓の外で、月がわずかに、離れ始めます。


「出立は明朝だ」


将軍が言いました。


「北まで十四日。夜は冷える」


そして、外套の内から布包みを取り出し、卓に置きました。


無言で。


包みを開くと、黒パンと、山羊のチーズと、焼いた塩豚。


塩と、焦げた脂と、酸味のある麦の匂いが、ふわりと立ちました。ずいぶん久しぶりに嗅いだ、まともな食べ物の匂いです。そういえばわたくし、今日は朝から何も。


「……よろしいのですか」


「余った」


嘘でした。包みは、ちょうど一人分でした。


わたくしはチーズを一切れ、口に入れました。塩気が舌に広がって、鼻の奥が急に熱くなりました。


泣くところではございません。チーズです。


「荷物をまとめて参ります。宿に帳面が三十冊ほど」


立ち上がろうとしたとき、将軍が言いました。


「君の手は冷たい」


「え」


「荷は俺が持つ」


それだけ言って、彼は先に歩き出しました。


わたくしは、数秒、動けませんでした。


七年。荷を数え、荷を積み、荷を背負って歩いて。


「荷は俺が持つ」と言われたのは、前世を含めて、初めてでした。


広間の隅で、ガイウス様が呆然と立っております。


すれ違いざま、わたくしは足を止め、一つだけ申し上げました。


「ガイウス様。携行食の袋、第二荷袋の右の仕切りでございます」


「……何だ、今さら」


「あなた様の分だけ、干し葡萄を抜いてございます。七年間、ずっと」


彼の目が、ゆっくりと見開かれました。


わたくしは礼をして、二重の月の光の中を歩いていきました。


◇


十一日後。


勇者パーティ『黎明の剣』は、灰の回廊で水を切らしました。


六名のうち二名が瘴気中毒、一名が脱水で倒れ、ミレーユ様の回復魔法も魔力切れで止まりました。引き返せたのは、ガイウス様が三人を担いで四日歩いたからだそうです。剣技だけは、本物でしたので。


ヴェルナ村は、やはり無人でした。


王都に戻った一行を待っていたのは、ギルド査問会でした。


証言台に立ったのは、受付嬢ノエル・ハーディ。彼女は毒を一切吐かず、事実だけを淡々と読み上げたと伝えられております。


「通達番号、東壁四段目『ヴェルナ村・封鎖継続』。掲示開始、三年前霜月三日。貼り替え十二回。記録は全て残っております」


「遠征予算残高、金貨三十二枚。支出内訳、領収番号EX-4471より計二十九件」


「双子月の誓約 TO-00207-S.Lou。締結時、第四条の読み上げを提案した記録あり。パーティリーダーは『細かいことは任せる』と応答。同様の記録が、過去に二件」


査問会は半刻で終わりました。


ガイウス・アルドレイ伯爵令息は、遠征指揮権を剥奪。解任状に署名する彼の手は、震えていたそうです。彼はその紙も、最後まで読まなかったと聞きます。


ミレーユ・ファンレーヌ様には、装飾品の返還命令。月光石の首飾りは、すでに質に入っておりました。


閉会後、査問官の一人がノエルさんに尋ねたそうです。


「補給係の令嬢は、実際のところ、どのような働きだったのかね」


ノエルさんは、丸眼鏡を押し上げて答えました。


「あの子、毎晩三時間かけて、全員分の食事の好みまで記録してたんですよ。閉館後の受付脇の卓で。蝋燭が足りなくなるので、わたし、一本余分に置いておいたんです」


「食事の好み?」


「ガイウス様は干し葡萄が苦手だから、抜いてありました。ミレーユ様は堅パンだと歯が痛むから、割ってありました。戦士のダンさんは、辛いのが好きだから香辛料を余分に」


少し、間があったそうです。


「誰も気づかなかったけど」


◇


──そして、北辺境。


兵站長セラフィーナ・ルウの着任初日、輜重隊の古参兵曹バルグ・トゥーレンは、熊のような体を揺らして鼻を鳴らしました。


「戦場は数字通りにゃ動かねえぞ、お嬢さん」


わたくしは反論いたしませんでした。


代わりに、過去三年の損耗記録の突合表を、一枚だけ差し出しました。


「バルグ兵曹。第三倉庫の凍結損耗が、毎年霜月の十七日から二十三日に集中しております。この七日間だけ、荷揚げ順を逆にしてよろしいでしょうか」


バルグさんは、欠けた二本指で表を押さえ、長いこと黙っておりました。


三日後、彼は自分の判子をわたくしの卓に置いていきました。


「兵站長殿。好きに押してくだせえ」


その冬、兵糧の損耗率は三割から一割五分に落ちました。


兵たちは、月に三度の『兵站長様の献立の日』を心待ちにしております。触れ回っているのは、バルグさんです。損耗率の報告書を読んだ日、彼の涙腺が少し緩んだことは、記録に残しておりません。


記録に残さないこともある、と最近覚えました。


◇


北辺境の砦、物見台。


空では、大月ルーナと小月リィナが、ゆっくりと離れていくところでした。


重なった夜から、ちょうど二百七日。わたくしはたった今、新しい供給契約に署名を終えたばかりです。羊皮紙の神格印が、まだ掌に温かい。


「兵站長」


隣に、ヴァイス将軍が立っておりました。


相変わらず無表情で、相変わらず言葉が少なくて、相変わらず、体温が高い。


この二百七日で、わたくしはいくつか学びました。


この方が笑うのは帳尻が合ったときだけ、というのは半分本当で、半分嘘です。本当は、わたくしが新しい表を作ったときにも、わずかに口の端が上がります。褒めるのが下手なので、代わりに席を用意する。棚を一つ空ける。椅子を運んでくる。そういう方です。


将軍は、書類を脇に挟んだまま、空を見上げておりました。


「セラフィーナ」


名を呼ばれるのは、まだ慣れません。


「はい」


「次の月が重なる夜も、隣にいてくれるか」


風が、砦の旗を鳴らしました。


遠くで、バルグさんが兵たちに何か怒鳴っております。明日の献立の話でしょう。塩豚が入ったと、朝から騒いでおりましたので。


わたくしは、腰帯の帳面を開いて、今日の分を一行書き足しました。


『第十七倉庫、塩豚樽四。良。──および、月が離れた』


それから、静かに閉じて、答えました。


「ええ。二百七日分、数えてお待ちしております」

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― 新着の感想 ―
この作品を見て、旧日本軍が補給を軽視して負けた史実を思い出してしまいました。 勇者様は戦争中の軍上層部ですね。 精神論や武力で勝てるなら、軍隊も勇者も楽かも知れませんが。
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