17.Side Story3:「月の少女」
中川冬美は、天使というと、翼を持った幼児のイメージを持っていた。キューピッドと混同していたのだ。
しかし、本当の天使とは、今、目の前にいる〈それ〉のようなものではないのだろうか。
ロシアの画家、ヴィクトル・ヴァスネツォフの描いた「神の母」という宗教画を見たことがある。左右に天使が二人描かれていた。その時は風変わりな姿だと感じたものだが、その天使像と〈それ〉はよく似ている。
過去の扉が開く報せを受け取ったあと、冬美は懐かしい想い出を追体験していた。
その最後に〈それ〉が現れた。
7年ほど前の自分に同化した現在の冬美を〈それ〉は明らかに見ていた。
過去の扉を開き続けることだけがタイムリープの理由ではないとは思っていたが、天使の出現は想像を遥かに超えていた。
冬美は動揺し、若い冬美の内部で、右手に精神を集中させて、ぐっと伸ばした。天使の身体や、それを包む柔らかそうな衣服の一部でもいい、掴もうとしたのだ。
今までは観客だった冬美の右手が天使に届いた。天使が冬美の思考を読んで、逆に彼女を過去の冬美から引きずり出したのかもしれない。
「あなたは何なの?」
冬美の問いを受け、〈それ〉は言った。
「私は使いに過ぎません」
そして、ささやくようにつなげた。幻想的な姿に反した低い声だった。
「あなたには、まだ時間があります。話してみますか?」
「あたしが天使と話すの?」
「数ヶ月前に戻ってきた者とです」
その言葉と同時に、〈それ〉の翼の内側から小さな少女が現れた。
「手品?」
そう口に出したときには、少女と二人、どこかの公園のベンチに座っていた。
上空は風が強いらしく、雲が走るように流れている。地球の自転の音さえ聞こえそうな速さだ。鳥のさえずりと、どこかから水の音が聞こえてくる。だが、自分と少女以外この公園にはいないこともわかる。
少女は就学前くらいだろうか。なぜ自分の想い出の世界にいるのだろうか。無理に連れて来られたのだろうか。しかし、どこかで見たことがあるような気もする。
「あなたは、どこから来たの?」
「月の海から」
「じゃあ、宇宙人?」
「今が過ぎれば、あなたはすぐに忘れてしまうの。だから大事なことだけ話すね」
少女は全く表情を変えず、話し始める。
「あなたは、心が過去に留まってしまっているの。あなたの時間が止まっちゃってる」
「ごめんなさい。ちょっとわからない」
「命を成長させるための時間が止まっているということです。肉体の時間ではありません」
少女の口調が、急に大人びたものに変化する。そして続ける。
「時間を止めたままにするか、命の時間を進めるか、いずれ選択を求められるでしょう」
「あのストップウォッチみたいなものを持った人がやってるの?」
「彼も、時間が止まったままで生きている人です。あなたと同じ」
中学に入ってすぐ、ストレスやホルモンバランスの関係だろうか、冬美の髪の毛のクセが強くなり、まるでタンポポの綿毛のようになったことがある。少し遅れて妹もそうなった。
それを、クラスの数人から、ひどくからかわれた。
「これは個性なんだよ!あんたらにあたしたちの個性をからかわれる筋合いなんてない!」妹は強い口調で言い返した。
「みんなさ、おんなじ格好をして、おんなじ髪型をして、存在が空気と変わらねーんだよ!空気が人間をからかうのかよ!」
強烈過ぎて痛快だった。日頃、静かな冬美たちがこんな毒のある言葉を吐くことにみんな驚いたようだった。もちろん、翌日からはクラスで無視されるようになった。だが、妹と二人でいれば全く気にならなかった。
母は彼女たちが小学校低学年の頃に、恋人を作って出ていった。捨てられたのだ。
やがて、冬美たちの知らないうちに離婚が成立しており、姉妹はそのまま父と暮らすことになった。
父は外面だけは良かった。そのためなのか、仕事でもそれなりの地位にいる人間のようだった。だが、徐々に外見が母に似てくる冬美たちを見ると、母への憎しみが蘇ってくるらしく、家では暴力的になっていった。「母と私達は違う!」、そう主張しても、父にも感情の処理ができなかったのかもしれない。
冬美姉妹は児童福祉施設へ入所することになった。ただ、進学準備金などは父の送金があったおかげで大学進学まではなんとかなった。冬美だけは。
妹の葬儀の参列者の中で、親族は冬美だけだった。棺に入った妹の顔は冬美と同じ顔だった。生きているのはどちらなのか、死んだのはどちらなのか、冬美はよくわからなくなった。
その時から冬美の時間は止まった。そして妹の時計を右手にするようになった。あれから7年間。長く生き、長く死んでいるような……そんな状態が続いていた。
冬美がそんなことを思い出している間、少女はずっと冬美を見ていた。
ふと、我に返って少女を見る。
少女は思い出し笑いを堪えるような表情で、こう言った。
「空気って言った時の、あの人達の顔、最高だったね」




