14.さようなら胡桃の木
別れの日が来た。
卒業式が終わった数日後には、すでに家財道具の大半が後ろの家へ運び込まれていた。
同級生のほとんどは、同じ顔ぶれのまま地元の中学へ進む。
だが、僕は違う。
別府へ引っ越すのだ。
それは僕にとって、故郷との別れの日だった。
僕は知らなかったが、かねてより別府の高校への転勤を申し出ていた母の願いがかなったのだ。
父は今までよりずっと遠くはなるが、車で通っているので特に不都合は感じないらしい。
僕が引越しの話を聞いたのは、澪と雪の中を歩いた冬休みが終わって2週間ほどした頃のことだった。
気づいてはいたことだ。
一方で、そんな日は来ないとも思いたかった。少なくともこんなにすぐには……。
なぜなら、両親の口から引越しの話など聞いたことがなかったからだ。
だから、だまし討ちをされたようで、悔しくて涙が止まらなかった。
澪と会えなくなることは、僕にとってとてもつらいことだ。
それを知りながら、どうせ子供のことだからすぐに忘れるだろうと軽く見られていたことが許せなかった。
僕だけが国東へ残ると言い張った。
父が教鞭をとる高校付近まで連れて行ってもらい、そこからバスを乗り継いで国東の中学へ通うという代替案も出した。
それでも、別れの日はやって来た。
川沿いの砂利道に車を停め、車の外では見送りにやってきた澪の母親と僕の母が話しこんでいる。
車は大通りを向いて停まっている。
もう、僕の家には僕の気持ちしか残っていない。
それは、すぐに郷愁と呼ばれるようになる気持ちだ。
見送りをこの田深川沿いにしたのは、澪の考えだったのだろう。
父は車の中で僕らを待っている。
姉はすでに別府にいる。
僕は澪と川沿いの砂利道を車の向きとは逆方向に少し歩く。
僕らの特別な胡桃の木はいつもどおりそこにある。
澪は言う。
「川に降りてみない?」
僕は黙ってその言葉に従う。
そこは二人でよく遊んだ水辺だ。
何もかもが思い出になってしまう。
そう考えると僕は言葉が出なかった。
澪は水に手をつける。
早春の水はまだ冷たいはずだ。
僕は水を揺らす澪の姿をぼんやり見ている。
澪はどんな大人になるのだろう。
きっと、今の美しさを保ったまま、今よりも美しい女性になるのだろう。
「これ、あげる」
澪は先ほどまで水につけていた手を、僕の方へ差し出す。
その手には水で洗われた胡桃の実がひとつ載せられていた。
「待ってる間に拾ったの」
「おおい!もう行くぞぉ!」澪の声に重なるように父の声がする。
僕は胡桃の実を受け取ると車へ向かう。
「じゃあ」
僕は振り向いて澪に言う。
「うん。じゃあね」
澪はその場を動かないまま小さく手を振る。
僕は胡桃の木に心の中で別れを告げる。
(さようなら、僕らの胡桃の木)
砂利道を車の方へ少し歩く。
そして車に乗り込んだ。
澪はかわらず水辺にいた。
澪の母が助手席の母に向かって「お元気で」と言っているのが聞こえる。
僕は水辺に咲く澪の姿をずっと見ていた。誰もがこんな切ない気持ちを心に刻みながら大人になるのだろうか。
車が動き出す。
車は大通りへ出ると右折する。
澪が、遠ざかり見えなくなる。
驚くほどあっさりと、澪は僕の今からいなくなってしまった。
車の中には父と母しかいないのに、不意に誰かに伝えたくなる。
あれが僕の故郷だったのだと。
もちろん、そんなことは、父も母も分かっている。
分かっていながら、車はどんどん遠ざかって行く。
悔しくて、心の中で呟くしかなかった。
言葉の代わりに涙がこぼれ落ちていった。
空間が揺らいだ。
時を刻む音が止まった。
目の前には東桜清河駅の改札が見える。一歩踏み出すとそれを待っていたかのように今が動き出した。
僕は電車に乗り込み、会社へ向かう。
電車に揺られながら僕は考える。
僕はあの日以来、風の香りや花の香りの中に、時おり故郷の香りを感じとることが出来るようになった。故郷の香りとは、子供時代の懐かしさを呼び起こす僕の心の中にだけ存在する香りだ。おそらく誰もが持っているものではないのだろう。
だとすると、僕はあの日故郷を失ったのではなく、手に入れたのではないだろうか。




