33 届かない一撃と爆炎の逃走
火の粉の乱舞が沈静し、空間を支配していた熱気がわずかに薄れた。
だが、武志の胸には、未だにあの突きの痛烈な衝撃が残っていた。
呼吸を整える間もなく、しゃがれた声の男は再び距離を詰めようとしている。
武志は奥歯を噛みしめた。
脚に力を込め、低く構える。
「まだ終わってねぇよ……!」
その声と同時に、武志が地を蹴った。
滑るように踏み込んで間合いを詰め、鋼の拳を振るう。
真正面からの打ち込みではなく、相手の視界を切るように身を沈め、左のフック。
魔素を帯びた拳が、空を裂くような唸りを上げた。
「へぇ、悪くないねぇ」
だが、しゃがれた声の男は、身体をわずかにひねるだけでそれをかわす。
まるで、武志の動きがあらかじめ読めていたかのような滑らかな身のこなしだった。
武志は即座に次の手に移る。
回避されたフックを無理に引かず、そこから勢いを活かして半身を翻し、右肘を突き上げるようにして反撃。
接近戦の中での連撃──。
だが、男はその肘を、トンファーで受け止めた。
ガキィン、と金属と金属が衝突する耳障りな音。
トンファーに魔素が流れ込んでいた。
武志の肘が受け止められた瞬間、反動が腕を通じて肩まで痺れさせる。
「動きは悪くねぇ。ただ……お前さんの拳は素直すぎる」
男は言葉と同時に、武志の腕の内側を払うようにトンファーを滑らせる。
防御を崩す意図――武志がそれを感じ取った瞬間には、もう次の打撃が目前に迫っていた。
寸前でバックステップ。
だが完全に躱しきれず、トンファーの先端が肩口をかすめる。
魔素鎧が衝撃を吸収したが、肩にずしりと鈍い痛みが走った。
「チッ……!」
武志は間合いを取り直し、肩を回して感覚を確かめる。
まだ動く。
なら、まだ行ける。
再び突進。
今度はフェイントを混ぜる。
踏み込んで見せて一瞬引く──男の反応を引き出し、隙を狙う。
右拳を囮に、左膝を跳ね上げる。
狙いは腹部、内臓への一撃。
しかし、しゃがれた声の男はその膝に合わせて自ら体を沈め、重心を崩さずに回転する。
視界の隅で、低い体勢から放たれたトンファーの逆手打ちが迫る。
受け止められないと判断した武志は体を捻り、右腕でガード。
その拍子にバランスが崩れる。
隙。
その瞬間を、男は見逃さなかった。
再びトンファーで反撃。
今度は腹部に叩き込まれた。
「──ッぐぅ!」
身体が浮く。
鎧越しでも、重い衝撃が腹の奥に響いた。
だが、武志は倒れない。
着地と同時に両足で踏みとどまり、前傾姿勢のまま踏み込む。
視界の揺れの中で、男の顔が笑っているように見えた。
「いい目をしてるな。だが、勢いだけじゃ届かねぇよ」
跳ね返すような重いトンファーの横打ち。
咄嗟に腕で受けるが、しなるような衝撃が武志の全身をぐらつかせる。
それでも、武志は耐える。
もう一歩、もう一手──。
けれど、どの攻撃も決定打にはならない。
拳はかすり、膝はかわされ、肘打ちは受け止められ、フェイントすら見抜かれる。
相手は一手先を読んでいる。
間合いも、角度も、意図すら。
魔素鎧の中、額から汗が流れ落ちた感覚がわかる。
呼吸は乱れ、拳の感覚も鈍くなり始めていた。
だが、それでも彼は立っていた。
折れてはいない。
しゃがれた声の男の目にも、焦りではなく、火が灯っていた。
「……いいじゃねぇか、その根性。潰し甲斐がある」
男の声が、またも戦闘の再開を告げた。
しゃがれた声の男が、魔素の籠ったトンファーを握り直す。
その眼には、もはや遊びや試しの色はない。
「一人、無力化されたなら……一人、確実に潰しておけばトントンってとこか」
呟いた声に迷いはなかった。
次の瞬間、彼の動きが変わった。
地を抉るほどの踏み込み。
トンファーが低く構えられたかと思うと、薙ぎ払うような横一線──いや、フェイントだ。
武志は身構えた。
しかし、男の狙いはもっと速く、鋭く、深い。
構えを崩した武志の胸元へ、真正面からの突きが飛ぶ。
寸分違わぬ軌道。
命を奪うための一撃だった。
だが──。
ドンッ。
破裂音のような風切りと共に、銀灰色の影が突き刺さる。
矢だった。
しゃがれた声の男の右肩に、深々と。
「……ッ!」
男の顔が歪んだ。
矢の勢いと痛みによってバランスを崩し、片膝をつく。
だがその目はすぐに鋭く何かを捉える。
路地の先、通りに一つの影が現れていた。
アースカだ。
弓を手に、次の矢を番えていた。
命中率を上げるために、隠密を捨てての一射。
「……痛てぇなぁ……!」
男は怒りを含んだ目で睨みつけながら、だが感情に呑まれることはなかった。
即座に前蹴り。
崩れた姿勢から放たれたそれは鋭く、武志の腹部を打ち、後方へ弾き飛ばす。
「ぐっ……!」
武志が仰け反り、地面に手をついて踏みとどまる。
痛みと衝撃を押し殺すように歯を食いしばる。
──だが、終わらせはしない。
蹴られた勢いを殺し、武志は反撃へと踏み込む。
今度こそ、今度こそ届かせると。
アースカも既に次の矢を構えている。
その眼は逸らさず、敵の動きを読み取る。
狙いはぶれない。
そしてもう一人、壁にもたれかかっていたヴィンドが立ち上がろうとしていた。
脇腹の痛みに、顔は歪む。
それでも杖を――仕込み刀を握りしめ、牙を剥く時を見定めている。
それを、しゃがれた声の男は一瞬で把握した。
彼は右肩に刺さった矢を、構えたトンファーで打ち折る。
断ち切られた矢の先が宙に舞い──それが、燃え上がった。
爆炎に巻き起こる砂煙。
「──ッ!? 煙幕かよ……!」
武志が目をしかめる間に、断ち切られた矢の破片が魔素に反応して爆ぜた。
火の粉が辺りを覆い、視界を奪っていく。
瞬く間に、炎と砂煙が空間を満たした。
その煙幕の中心へ、武志が飛び込もうとした──その時だった。
「っ、待て!」
ヴィンドが叫ぶよりも早く、煙の中から火の玉が数発、放物線を描いて飛び出してきた。
石ころ大の小さな魔力球。
その挙動に、武志は本能的に身を引く。
「また、あの小石か……!」
警戒心が、彼の足を止めた。
だが、それこそが──。
「……逃げたな」
煙が晴れ始めた時、しゃがれた声の男の姿は、もうそこにはなかった。
残されたのは、焦げた地面と、風に舞う灰と、微かに香る血と火薬の臭い。
「……クソッ!」
武志が拳を地面に叩きつける。
だが悔しがっても追いつける距離ではない。
夜の闇に紛れ方向も分からない。
逃亡は既に完了していた。
「……気配を消したか。手慣れたもんだな」
アースカが駆け寄る。
武志は、立ち上がりながら辺りを見回し、すぐに首を横に振った。
「相手の方が一枚上手だった……それより──」
武志の視線がヴィンドに向く。
壁際にしゃがみ込み、脇腹を押さえている。
痛みが身体を震わし、呼吸は荒い。
「宿に戻ろう。治療を優先した方がいい」
武志がそう言うと、アースカがすっとヴィンドに近づき、彼の腕を自分の肩に回した。
「それは……仮にも護衛を名乗るオレの役目だ。ヴィンド爺はオレが連れていく。タケシ君はノールたちの応援に向かってくれないか?」
「……わかった」
武志は即座に頷いた。
余計な逡巡はなかった。
肩を貸されながら、ヴィンドが小さく、申し訳なさそうに頭を下げる。
「……王子たちを、頼みます……」
「任せてくれ」
武志の答えは、短く、だが迷いなく響いた。




