第1話 プロローグ
春暖の夜。
肌寒い季節が終わり、生ぬるい風が肌を撫でる。
人ごみの中では欠かせないマスクだが、少し暑く、マスクを顎にかける。春の空気が喉を通り、温かくどこか浮ついた空気が周りに充満している。その空気は周りから来たものだろう。冬よりも人の数が多い気がする。
路上でギターを手に歌う青年、手を繋ぐカップル、談笑する学生。
どこか浮ついた空気が充満する中、桐生 仁は弛緩した空気に反するようネクタイを締め直し、真っ直ぐ、鋭い目つきを前に向ける。
周りに影響されず、ただただ前を進む。
この雑音には何の価値もないと言わんばかりに仁は舌打ちをする。
仁は弛緩したものが嫌いだ。
弛緩したもの、適当なものは金を生まない。金はいつだって、張り詰めた空気の中にある。気軽な気持ちで手を伸ばしても決して届くことはない。あらゆる覚悟を決めて、厳粛な心持ちでいなければ決して辿り着けない領域。だからこそ、その先にある金には価値がある。
仁そうは信じている。
ふと、目線が横に移る。
まだ若い自分と同年代ほどの女子が何も持たず、踊りながら歌を歌っている。
どこかで見たことのある女子だった。
記憶の奥底を辿るものの、いまいち琴線には触れない。
だとすれば、それは自分の顧客ではない。
顧客のことを忘れることがないという絶対的な自信を持つ仁からしたら、記憶の琴線に触れない人物は、いわゆるどうでもいい人物、なんの金銭的価値も生まない人間だということだと認識する。
仁は視線を前に戻す。
前に、前に、ひたすら目の前の先を見るようにして歩く。
× ×
放課後、仁は荷物からノートパソコンを出し、スマホで市場を確認しながら稟議書を入力してゆく。
補修までは10分ほどある。
一件ぐらいは入力できるだろうか。
仁は優秀な学生だった。
しかし、仕事の関係で授業を欠席することが多く、こうして放課後に補修を受けなければならない。それでも、補修を受ければ単位が取れる学校は融通が利く方だと思う。
ここ、瞭綜学園高等部には優秀な学生が集まっている。
仁は最年少バンカー(銀行員)として、学園側から特別推薦という形で入学し、特別推薦コースという、仕事をしながらでも単位の取れる融通の利くクラスにいる。
それでも最初は気乗りしなかった。
学校に行っている間、仕事が進まない。
いっそのこと、高校など行かずに仕事に専念したいと思う仁にとって学校は足枷に過ぎなかった。
しかし、今の時代でも学歴というものは個人のステータスになっている。
仁は仕方なく、ステータス稼ぎのために学園に入学した。
それにしても、放課後に補修があるなら結局のところ仕事に行く時間が減る。
教室にいたクラスメイトは次第に下校、もしくは部活動に行くため、去ってゆく。
仁は作業に集中しながら、辺りをちらと見渡す。
仁と同じように補修を受ける者は少なからずいる。その中でも数人は同じように外部の活動による単位補習のためにやってきている。
スポーツ選手、歌手や芸能人もいる。
仁は笑みをこぼす。
ぜひ、商品として扱いたい。
仁の仕事は銀行業務のひとつで、将来有望な人間を個人株式市場に出品し、商品、すなわち、個人の価値を顧客に買ってもらうことだ。それを今の世では、パーソナルバンカーという。
パーソナルバンカーは将来価値のある個人を市場に出品する。その個人の活動を社会的に価値があるなしと顧客に判断され個人価値が売買される。
社会的価値が低い人間が個人株市場に出品された場合、売買値は低い。しかし今後、活躍し社会的に価値が生ずると判断されれば、多くの人間から評価され、個人株式は買われる。
そうして価値を買われた個人は購入者からの資金や、信用によりさらに社会的価値を高めてゆくという仕組みになっている。会社の株式同様、個人の価値は売買によって日々上下している。
現代で個人の価値は個人株市場によって数値化されているようなものだ。
パーソナルバンカーは当然、将来、社会的価値をもたらす人間を個人株に出品する。言うなれば今現在、社会的価値があるかどうかは関係がない。むしろ、まだ世間的に価値が認められていない人間を中心に出品する。その方が将来認められたときに買われる個人株式の購入手数料として利益が生じるからだ。
すなわち、パーソナルバンカーはダイヤの原石を見つけ出す仕事と言っていい。
仁が仕事の時間を惜しんで、瞭綜学園に入学したもうひとつの理由だ。
瞭綜学園は優秀な人間が多い。しかもまだ世間的に活躍しきっていない人間が多くいる。
だから、生徒をダイヤの原石として売り出し、その生徒が結果を残せば株式は多く買われ、大きな利益をもたらす。
仁は瞭綜学園でも優秀な人間をスカウトし、個人株市場に出品し、活躍させている。
個人株市場に出され、個人株を購入された者は購入株によって資金が入る。海外の大会に出場するスポーツ選手には資金が必要だ。
実績のある人間にはスポンサーが付くが、実績のない者にはスポンサーが付かない。すなわち、海外の大会に出る資金がない。そこで、パーソナルバンカーである仁が将来有望な人間を個人株市場に出すことによって、資金を提供しているのだ。個人株取引は今までのスポンサーの役割も果たしている。
仁はこの瞭綜学園での生徒、能力のある人間を個人株市場に出品し、実際に実績を残させている。
パーソナルバンカーは歩合制で、実績を残せばその分、自分の利益になる。
多くの実績を残している仁は個人株市場売買手数料で都内のマンションを購入できるほどの金を持っていた。
高校2年生にしては、仁ほど金を持っている人間はいなかった。
それでも、仁にとっては足りなかった。
もっと、もっと、稼がなければならない。
その一心で仕事に励んでいた。
仁がノートパソコンで黙々と作業していると、ひとりの女子生徒が近づいてきた。
「…………」
仁は女子生徒が近づいてきたことをわかっていたが、目の前の仕事に集中するため目線はノートパソコンから移さない。
すると、しびれを切らした女子生徒が口を開く。
「あのっ!」
声高に話しかける。
「なんだ」
仁は素っ気なく返事をする。視線は相変わらずノートパソコンのまま。
「あの、桐生仁くん、だよね?」
「そうだが」
「その……お金が必要なんです」
「そうか」
この手の人間は数多に存在する。
仁が多額の資産を持っていることを、多くの人間が知っている。
だからこうして、物乞いをしてくる人間も少なくない。
「……どうすれば、お金、もらえますか」
「良い提案がある」
「えっ! なに?」
女子生徒が食い気味に問う。
「アルバイトをすればいい」
「えっ……」
「遊ぶにはその程度の金で十分だろう。用が済んだら去ってくれ。仕事中だ」
ノートパソコンから視線を動かさず、ぴしゃりと言い放つ。
女子生徒は仁の言動に茫然としている。しかし、少しして気を取り直す。
「遊びじゃない!」
大きな声に仁は少し驚くが、すぐに作業に戻る。
「みんなそう言うんだよ」
「私……、その、アイドルに、なりたいの」
「ほう」
仁はノートパソコンから視線を動かす。
アイドルは今の個人株市場ではスポーツ選手同様高値で売られている。
AIが今までの仕事を担っている代わりに生身の人間に求められている能力は創造性、エンターテインメント性だ。
アイドルはエンターテインメント性が高く、市場でも価値がある。
仁は女子生徒を見やる。
「…………」
「えっ、なに?」
女子生徒は急に見つめられ、戸惑う。
「見た目はC、カリスマ性はD、ああ、それと……なるほどな。総合評価はDだ」
「な、なんの話?」
「お前の将来性を見せてもらった」
「え、ど、どう?」
「D。6段階中5番目の評価だ。まあ、頑張るといい。それじゃあ」
「っ!」
そう言って、仁は再びノートパソコンに視線を戻す。
「ちょっと!」
「…………」
女子生徒は抗議の目を仁に向けるが、仁は取り合わない。
「私、本当にアイドルになりたいの!」
他に教室にいる生徒が何事かと女子生徒を見る。
さすがに仁も無視できなかった。
「……やる気はBか。いいだろう、話は聞こう」
「あ、ありがとう!」
「ただし、補修が終わったのち、5分だけだ。それ以上は時間対効果に見合わない」
「じか、え?」
女子生徒が首をかしげる。
「とにかく、もしその気なら補修の後にまた時間を作ってやると言っているんだ」
女子生徒は花開くように笑顔になる。
「ありがとう!」
厄介な人間に絡まれたと仁はため息をこぼす。