第1話 日常(中編)
しがない帰り道。黄昏の百段坂を下る。ただいま絶賛試験期間中につき、流石の熱血漢な木嶋先輩や顧問も「今日は全員、走り込みは17時まで」と妥協してくれたおかげで、比較的早い時間に帰ることができている……のだが、俺の心にはこの長閑な街並みを照らす美しき夕陽に翳る灰色雲がごとき暗雲が立ち込めていた。
そう、その元凶は昼頃の『日本史』である。おそらく、いま十中八九『追試確定』な状況に俺の気持ちはすっかり萎えていた。明日は『数学』に『化学』に『古典』と、これまた歯ごたえあり胃に凭れそうな重い献立が控えているというのに、古典的な言い回しをすれば「さはれ!」と投げやりな感情に心が支配されている。正門からここまで緩やかな下り坂だというのに、心なしか足取りが重いのはそれが理由だろう。
「でねー、それがさあー」
「そうなんだ! それで? それで?」
小高い丘の上に居を構える我が高校。百段坂を下りて閑静な住宅街を抜けたのち、中学校付近の交差点を左折して最寄り駅まで向かう。それが大半の学生諸君が辿る家路なのか、俺の周りには俺と同じく下校途中な学生が「やいのやいの」言いながら流れてゆく。賑やかなのは結構だが、いまの俺にはそれは苦行でしかない。なぜなら……
「今回はダメだね、全然だわ」
「ウソ!? それいうなら、ウチのほうがヤバいから!」
「えー、ふたりがそれじゃあ私なんか全然だよ。マジで死んだから」
「それはないでしょ? だって、リサのほうが……」
こんな感じだからだ。
ん? わからない? ホントにヤバい状況下で、上辺だけの「全然」だの「ヤバい」だので溢れるところを歩いてみるといい。もうね、ウンザリするから。予防線張りまくりなヤツらこそ高得点を叩き出して「マジで今回は奇跡!」とかぬかしやがるんだから。俺はもう騙されない。それがもうお約束。伊達に17年も生きていないんだよ、こちとら。
「……ウ、……ョウ!」
眼前に広がる景色。夕陽に照る住宅街とビルの切れ間に悠然と広がる相模湾の穏やかなること。あまりの眩しさに眼を細めてしまう。橙な空に鴉の声が聞こえ、どこか哀愁漂う雰囲気に酔いしれてしまいそうだ。
「聞こえないのかな? それともガン無視? ガン無視なの?」
石造りの階段には五月雨の名残が見え隠れする。部活中、体育館にいたから気付かずにいたがどうやら先ほど降りやんだところらしい。役目を果たせずに畳まれた傘の群れが通り過ぎてゆく。
「ねえ、ガン無視はひどいよね? 泣いちゃうよ。あたし泣いちゃいますけど、いいの?」
……ああ。もうね、ため息が出るよ。こんなときくらい独りにしてほしいのに。俺は気怠げに「なんだよ」と振り向いた。
「いかがなされましたか、レナお嬢さま」
夕陽を真正面に浴びる人影がひとつ。やはりそこには案の定、俺の幼馴染である如月 玲奈が佇んでいた。不機嫌そうな表情をして。レナがぷくりと剥れる。
「レ! レナお嬢さまって。アレでしょ? あたしを完全にバカにしていますよね、あなた」
「え、ああ。うん」
多分、真顔で返したのだろう。やや気分低めな口調に対し、レナは「もう!」と語気を強めた。さも当たり前かのように、俺のほうへ幅寄せながらも。ご自慢の黒髪がふわりと舞う。腰辺りまで流れる長さと滑らかさが売りのロングストレートで、白い柔肌に黒真珠を彷彿とさせる大きな澄んだ瞳を煌かせて。
「そんなふうにザツな弄りしてくるのリョウくらいなんだけど」
うん、だろうよ。その容姿とガラにもなく茶華部で副部長なんて務めているからか『献身的でお淑やかな女性』なんて評されているみたいだからね。でも、実際は――――――――
「今日の試験、どうでした?」
――――――――こんな感じ。淑女が聞いて呆れるから、こんなの。見るからに傷心している人間を捕まえて「順調?」って正確に傷口を抉りくる感じがある意味天才なんじゃないかと思う。ああ、天災のほうかな?
「どうって……そりゃあ、ねえ」
「何その感じ? まあ、いいわ。ていうか、あたしね。今日ので少しヒヤッとしたのがあってね」
レナはそう言いながら自身のカバンをゴソゴソしはじめた。「階段の途中で危ないから」と、捜索に夢中なレナを端に寄せてしばしの待ちぼうけ。数十秒後、レナが「あった!」と『例』の問題用紙を取り出した。そう、例の。『日本史』のテスト用紙である。
「へ、へぇ……どこの問題?」
「ん? あ、えーとね。たしか真ん中くらいの。ああ、ここ! 問14、村上天皇退位後に即位した天皇は誰? ってところ」
マジか!?
「ここの答え【冷泉天皇】なんだけど。あたし、ド忘れして。最後の最後に思い出して焦りましたよ。資料集だっけ? あそこの家系図見ておいてよかった。ホント冷や汗ものでした」
マジか……俺はいま冷や汗をかいているんだが。まるで読心術でも使われているかのような正確さに、恐怖すら覚える。がしかし、レナのほうはそんな心情など解さず、勝手に話を進めていく。
「それでね、すぐに思い出せなかった自分が悔しくてね、参考書で調べたわけ。そしたらさ、この御仁って、わたしたちと変わらないくらいの歳で即位したの」
「へえー」
「まあ、若くしての即位だから主導権は藤原氏に握られちゃうし、政治的均衡も崩されちゃうんだけどね。在位も2年くらいだし……でも凄くない?」
「そうだな。俺からしたらそんなのわざわざ調べるお前のほうが何倍もスゴいと思うけど」
「んなっ!」
横を向くと、レナが少し頬を赤らめていた。夕暮れの淡い陽射とは違う、昂揚した感じの赤い色。『怒り』とは異なる感情が文字通り表に現れていた。レナの口角が上がる。
「でも、まあ。誰かさんみたいに、わからないところをいつまでも飛ばさずに一生懸命考え抜こうとするのも相当スゴいけどね」
「んなっ!」
どうしてそれを!? 俺が思わず訊こうとすると、レナは「へへっ」と満足げな表情を浮かべた。
「あたしの2個後ろでしょ? 答案用紙廻すときにチラッとみえたから。またいつもの”最後までこだわるクセ“なのかなって思いましてね。大事なことだけど、たまには筆休めにしてみるとか、最悪、”これでいいやっ!”って踏ん切りつけちゃえばいいのに」
「……」
「どう、恐れ入りまして? お互い弄られてこれで”おあいこ”でしょ?」
レナはそうして階段を駆け下りた。俺も「おい!」と後を追う。笑い合うふたり。気付けば、その足取りは軽くなっていた。誰かさんのおかげで。