悪役令嬢の誤魔化し
朝陽が目に染みたので、瞬きをしてゆっくり目を開けると、ロゼは客間の長椅子に崩れるようにして座っていた。
侯爵令嬢としたことが、長椅子の上で力尽きて眠ってしまっていたらしい。
ふと、片手が妙に動きづらいことに気が付き目をやると、大きな手に自分の手が握りこまれていた。
……あ!
大きな手と繋がっている腕を辿ってその人物の顔を見ると、やっぱり名ばかり婚約者のキールに辿り着いた。
彼には、昨日から酷い迷惑をかけている。
だが、正直救われた。
頼んで繋いでもらった大きな手が安心した。
最初は昔の父の手のようだとも思った。
温かくて、頼ってもいいと言ってくれているような大きな手だったが、少し力を入れて握りこまれたときにハッとした。
全然父なんかじゃない男の人だと気が付いた。
そして、ロゼの心臓が大きく脈打って揺れた気がした。
それは妙な、甘いような痺れるような感覚だった。
でもまあ、それが何かなんて追及するつもりはない。
追いかけて知っても、ロゼには無駄なものだ。
それよりも、だ。
「……ありがとう」
長椅子にもたれかかってすやすや眠るキールに小さく声を掛けた。
こんな自分を心配して、嫌でも手を離さず夜まで越してくれたキールに感謝だ。
悲しい夢を見なかったのもキールのおかげかもしれない。
「……どういたしまして」
ひゅっと息を呑み、ロゼは驚いた。
キールの切れ長の綺麗な目が突然開かれたからだ。
「お、起きていたの?い、今私が言ったことは幻聴よ。忘れなさい」
「なんでだ。君は、俺に感謝を伝えたくてああ言ったんだろ?よかったな、俺が丁度起きたところで。言葉は相手に届かなきゃ意味がないからな」
寝起きのキールは綺麗な顔で、少し妖しく笑っていた。
ロゼは慌てふためいて、それでも頑張って冷静を装いながら首を振る。
……聞かれていた。聞かれていた!
こんなの、自分のような悪役令嬢らしくない。変に思われただけだ。誤魔化そう。
「そ、そんなもっともそうなことを言うけれど、あの言葉が真意かどうか貴方には分からないでしょ。私が本気で貴方に感謝したとでも思っているの?言葉なんてどうとでも取り繕えるのよ、知っていた?」
「でもさっき、君は驚いた顔で幻聴だから忘れろと言っていただろ。だから俺は、あれが君の真意だったと推測するけど」
「そ、それは演技だったかもしれないわね。私、演技は上手いの。女優にでもなろうかしら」
「意味不明な演技をする迷女優になれそうだな。それより、君に感謝されたことがあるなんて学園で言えば、みんな驚くだろうな」
体を起こしたキールはクックックと笑っている。
今までロゼの前では完全に無表情で楽しさの欠片も見せなかったような人間が、真っ赤になったロゼをからかって論破して、楽しそうにしている。
「あ、あら。私に感謝されたことがあるなんて口走れば、たちまち貴方は嘘つき呼ばわりされるか、悪役令嬢の片棒を担いでいると思われることになるわよ。そんなことにはなりたくないでしょう?きれいさっぱり忘れなさい。ついでに昨日のことも全部」
「忘れない」
「……そ、即答ね。ならそれでもいいわ。でも私は忘れるから。貴方だけ一人寂しく覚えているといいわ」
「それは確かに寂しいな」
低く落ち着いた声がして、でもこれは証拠になるだろうとばかりに手を握りなおされた。
ロゼは、それに反抗するようにそっぽを向くことしかできなかった。
ロゼが唯一できた反抗はそれだけだ。
繋いだ手を振りほどくことは何故かできなかったし、睨みつけることもできなかった。
頬が少し熱くて、調子が悪い。
これはきっと、父がいなくなってしまった混乱と寂しさが原因だ。
大切なものを失ってしまって、心に大きな隙ができているのだ。
ぼんやりと何かを話したり話さなかったりして時間が過ぎて、ようやくキールが帰る為に立ち上がった。
「学園は、しばらく休むか?」
そして客間の扉を開けた時、彼は振り向いた。
その問いに、ロゼは頷く。
「そうね。父の遺品を整理して、相続の手続きもして、それから、もう少し泣くわ」
「そうか」
キールはロゼを労わるように笑った。
それはなんだか、ロゼの心にしみた。
自分は弱っている。
自分を嫌悪している婚約者の何気ない「そうか」まで優し気に聞こえてしまう。
「また、手が必要になったら連絡しろ」
不意にまた、キールに優し気なことを言われた。
それはどういう意味か。
そう言って馬車に乗り込んで帰っていくキールの姿を反芻しながら、ロゼは思った。
それは、もしかして、また手を握っていてくれるということか。
今度は、キールのことが少し心配になった。
名前だけとはいえ婚約者なのだから義理で言っただけだろうけど、傷心の女にそこまで優しくしたら簡単に勘違いして、簡単に図に乗ってしまう。
相手がロゼでなかったら、一瞬で周りが見えなくなっていたかもしれない。