不謹慎な婚約者
「お前あの悪役令嬢の婚約者やってるんだろ?ほんとよく我慢できるな。早く婚約破棄でも何でもした方がいいぞ」
ロゼと同じ学部に在籍する、友人の公爵令息、リードにいきなり廊下でそんなことを言われたのは、キールである。
キールは「そのつもりだ」といつもの調子で答えていた。
キールがこの手のアドバイスを受けるのはもう数えきれないほどになる。
その度にそのつもりだと答えて、キール自身もそのつもりでいるのだが、悪役令嬢な婚約者がいなくなったらまた別の煩わしい女性がどこからともなく現れるんだろうと思うとうんざりで、婚約破棄は先延ばしにしていた。
女性はみんな同じだ。
誰を婚約者に選んでも気に入らないところは見えてくる。
ロゼは壊滅的に口が悪いが、別の女性はきっと物凄く怠惰かもしれない。物凄く頭が悪いかもしれない。
はたまた、四六時中一緒にいることを強要し、引っ付いてきて「私が好きなの?」「本当に好きなの?」とうるさいかもしれない。
どうせ、誰と婚約しても嫌になってしまうのだ。
だから今までずっとロゼの婚約者という立ち位置に収まってきた。
もちろん、口が悪くて性格が悪いので、キールはロゼのことは好きではない。
何故もう少し穏やかな言葉選びができないのだろう。何故自分以外のすべてが敵であるかのような態度をとるのだろう。何故、仮初とはいえ婚約者相手にさえ笑顔の一つも作れないのだろう。見ていると苛々する。
学園に入学した年に婚約したから、かれこれ2年弱の付き合いになるのに、未だに出会った時と同じ喧嘩腰で話してくるロゼのことはやはり好きにはなれない。
惰性で悪役令嬢ロゼの婚約者を続けては来たが、今年卒業も控えているしそろそろ潮時かもしれないとキールは思い始めていた。
そんな時だった。
ロゼの父親の訃報が入ったのは。
キールが両親と共にダークヘイト家に駆け付けたのは、暗い雨の降る晩だった。
人望があったダークヘイト侯爵の通夜にはもっと人が集まるだろうと予想していたが、屋敷に集まっていた人数は少なかった。
ロゼの父親、ダークヘイト侯爵は、侯爵という高い身分でありながら、自らよく街に足を運んでいた。
繁華街だけでなく、スラムの方へまで足を延ばしていた。
彼は、子供という子供に教育を施したいという夢を持っていた。それはスラムの貧しい子も、貴族の裕福な子も皆一様に。
だから今日この日も、侯爵はスラムまで自ら出掛けていたのだ。
そこで偶々起こった賊同士の諍いに巻き込まれた子供を庇って重傷を負い、その日のうちに息を引き取ったということだった。
まったく、突然のことだった。
ロゼとは似ても似つかぬダークヘイト侯爵に、キールは何度か会って話したことがあった。
娘のロゼと妻、そして子供を愛した、明るく優しい人柄の人物だった。
そういえばそんな彼の存在も、キールをロゼの婚約者でいるように引き留めた一要因だったかもしれない。
キールは、ロゼを心配するダークヘイト侯爵の思いを知っていた。
しんとして冷たい屋敷の一部屋に足を踏み入れる。
窓に当たる冷たい雨の音が部屋の中に木霊した。
キールは寝かされた侯爵の体の前で静かに目を閉じた。
彼は最期まで、心優しい人だった。
そしてふと顔を上げると、すすり泣く人々の間に、すっと立って声もなく泣いている黒い影が目に入った。
ロゼだった。
背筋はいつものように伸びたままだが、大粒の涙をボロボロとこぼしていた。
あふれ出るそれを拭おうともせずに、崩れ落ちて泣く母親の横で立ったまま泣いている。
あのロゼが泣いているところなんて、初めて見た。
涙なんて想像できないような口の悪い女性だったのに、その泣いている姿はやっぱり綺麗だと思えた。
綺麗で、でもとても脆い。
ロゼのようにいつも張りつめている人間は、数少ない支えが無くなった時壊れやすくなってしまう。
心配になった。
婚約者だからとか好き嫌いを抜きにして、今この場で一番ショックを受けているのはロゼとその母親だということは明白で、それを心配しない道理などキールにはなかった。
侯爵の遺体を滲む瞳で見つめながら立つロゼの傍まで来て、暫く考えた。
慎重に言葉を選んでから、キールはようやく声を絞り出す。
「ハンカチだ。使え」
「それくらい持ってるわ。私がハンカチさえ持っていない恥知らずな令嬢だと思ってるの?私がハンカチを使わないのはわざとよ。この分だとハンカチはすぐ濡れて使い物にならなくなるでしょ」
ロゼは涙をぼたぼた流しながら、いつものように冷ややかに笑おうとした。
だが、それは上手く決まらなかった。
虚勢を張ろうとして失敗して、とても不格好な笑い方だった。
悲しくて仕方なくてこんなに泣いているのに、ロゼは一生懸命気丈に見せている。
「大丈夫だ。俺はハンカチを3枚持っている。安心して使え」
キールがハンカチを押し付けると、ロゼは少し驚いたようだった。
「3枚も……貴方も父の為にそんなに泣いてくれるつもりだったの?」
しゃっくりを上げながら、ロゼはキールからハンカチを受け取った。
その時微かにだが、ロゼは目を細めて笑った。
泣きながら、感謝を込めた顔で笑った。
これも、初めて見る顔だった。
……かわいい、
と思ってしまってから、キールはハッと我に返る。
いやいやいやいや。ちょっと微笑んだというだけだろう。
いつもツンツンしている彼女が泣いているというだけだろう。
確かにロゼの普段の姿とはギャップがあるが、だからってこんな感想になるか?
自分はこんなに単純だったか?
おかしいおかしい。飛躍しすぎだろう。
いいや、それよりなにより、人が悲しんでいる場所でこんなことを考えるのは不謹慎だ。
気を取り直したキールは、ロゼに話しかけた。
「ダークヘイト侯爵は立派な方だったな」
「そうね、娘から見ても立派な人だったわ。本当に、私には勿体ないくらいのね」
「変にへりくだらなくていい。侯爵は、君を大切にしたことを勿体ないとは思わなかったはずだ」
泣いてはいるが、ロゼの口調が軽いものだったので、キールは思わず文句を付けてしまった。
ハッと気づいて、軽くとは言え傷心のロゼを刺激するべきではなかったかもと思い、キールは慌てて訂正しようとしたが、ロゼは気にしていない風だった。
「そうね。勿体ないなんて、父が今まで私にしてくれたことを無かったことにするようで失礼かしら」
またしても、ロゼは小さく笑った。
自然な、零れたようなささやかな緩み。
ツンケンする余裕もなく打ちひしがれているから出てしまった、素の表情。
このロゼを見た時も、何故かキールの息はぎゅっと詰まった。
目を伏せたロゼを見て、「大丈夫だ」と言いかけたキールは口を噤んだ。と同時に、差し出しかけていた手を引っ込めた。
そんなことしてどうする。
彼女が自分に心を開いてくれたことは無い。彼女の父親の穴を埋めることは1ミリだって不可能だ。
いや、それより何故そんなことをしようと思った?
手を伸ばして、嫌いな筈の彼女にどんな反応をしてほしかった?
……おかしい。
自分は動揺しすぎじゃないだろうか。
悪役令嬢とまで呼ばれる彼女がちょっと弱弱しいだけで、遺族を労わるべきだと思う以外の気持ちを持っている。
日頃の彼女を思い出せ。
彼女の悪態を思い出せ。
今は泣いているが、彼女の本質は口と性格の悪い手の付けられない女性だぞ。
それに何より、不謹慎。
不謹慎、不謹慎、不謹慎。
明日の葬式を控えて帰宅した後も、キールは心の中でそう唱えていた。
侯爵の死を心の底から悼んでいる筈なのに、どうもあのロゼの小さく笑った時の顔が消えない。
繰り返し思い出してしまっている。
それくらい衝撃的だったということだろうか。
ロゼの珍しすぎる表情に驚いただけ。そうだ。決して、他の理由ではない。断じてない。
侯爵の死よりも衝撃的だったのが小さな笑顔だなんて、ロゼの日頃の態度の悪さが窺えるというものだ。