ただ歩くだけ
私は歩いている。ただ歩いている。何を考えるでもなく、歩いている。
一本の道しか私にしか残っていない。私はそこをただ歩く。道は黒と赤が完全に混ざりきらなかったような色をしており、周りを取り囲むのはペンキを塗りたくったかのようにのっぺりとした白であった。
私は歩く。私はなぜここにいるのだろう。何もわからない、何も理解できない。しかしそれを脳が考えようとしてくれない。脳が私の体の中にありながら、私から分離してしまったかのようであった。
私は歩く。着ていたスーツはいつの間にか、茶色のズボンと白いシャツへと変わっており、黒のコートを羽織っていた。手にはなぜか弦楽器のようなものが握られていて、まるで中世の吟遊詩人にでもなったのかというような服装となっていた。
私は歩く。何故か腕時計は狂ってしまい、今となっては時間すらもわからない。しかしそれに対して私は何も感じていなかった。現実(少なくとも私が今までいた世界は私にとっては現実であった)との唯一の繋がりを無くしてしまったことに対する悲しみも、時間がわからなくなったことに対する不安という単純な感情すらも湧かなかった。
私は歩く。たまに人に出会うが、向こうも私と同じ境遇なのか、一言も話さずに、話せずにすれ違うのみである。誰もかれも全く違う服装をしていたのだが、唯一、私も持っている弦楽器をすれ違う誰もが持っていた。
私は歩く。もう何もかもがどうでもよいとさえ感じてきた。家路についていた道の中、気が付いたらこんなところに来ていたように記憶していたが、今となってはそれもどうでもいい。本当は今まで見ていた数十年が本当は幻覚であり、延々と歩き続けることに嫌気がさして私から離れて行ってしまった脳が最後の慈悲に見せてくれたものだったのかもしれないとすら思っている。もうほとんど何も感じない。空腹感も、のどの渇きも、感情と言ったものも。時間がわからなくなったときから、私はもうこうなってしまっていたのだろうか。それすらもわからない。
私は歩く。唯一残っている、些末な景色を写す視力と、わずかに残る足の感覚を頼りに、止まってはいけない、進み続けなければならない、歩き続けなければならないという強迫観念にいざなわれて。
私は歩く、私は歩く、私は歩く………。