第一話 その1
俺がハルの話の半分も理解せずに異世界に行くことになったのは,ハルの説明が不十分であるのもあった。それでも,自らの命を保ち続けるには,ハルの話に乗るより他なかった。俺は肯定の意思を,意識を集中し伝えるとハルの顔は明るくなった。そしておもむろにこちらに近づき,俺の手を取ると,途端に全身を支配していた強張りのようなものが消え,死んでいた五感は息を吹き返し,生の実感のようなものを得た。極度の緊張から解き放たれた俺は,ハルの手を握ったまま,喘ぐように空気を吸い込んだ。不安げに覗き込まれた瞳は,未だ出会ったことのないほど美しい緑色をしていた。
落ち着きを取り戻し,次第に余裕が出て,辺りを見回した。人々がみな驚きや,絶望に似た表情に満ちて止まっている様が,巧緻に作られたジオラマのようだった。
「早く早く!」
ハルはぐいと俺の手を引っ張ると,空間を切り取った異質な楕円の前まで連れて行った。
「ここからが入口ね。ハルの手を離しちゃダメだよ。危ないからね」
理解はとうに諦めたが,恐怖は本能として残っており,不安からハルの手を強く握った。
「じゃあ行くよ! 一緒に飛び込むんだからね。いい? 3,2,1!」
カウントするやいなや,ハルはプールに飛び込むみたいに地を蹴った。俺はあまりに突飛であり,思ったよりもカウントが早く,タイミングが合わなかったため,繋がれた右手だけが先行し,つまずく様に飛び込んだ。
飛び込んだ先は眩いばかりの光に満ちており,天地も無く,なんとなく落ちる感覚だけがあった。ふわふわとしたこの感覚に,急に尿意を催したが,それ以上に目を焼かんとする強い光に吐き気がした。何も見えず,ハルの声だけが聞こえる。
「あともう少しだからね……オエー」
お前が気持ち悪くなるのはおかしいだろ。そう思って口にしようとするが,思わず吐いてしまいそうだからやめた。平衡感覚が悲鳴を上げ始めた。目を閉じても突き抜けてくる強い光は激しさの衰えるのをしらない。そしてとうとう気を失った。
目を覚ますと深い青空がおぼろげに見え始めた。葉の青い匂いと土の匂いがする。ズキズキと頭が痛み,次第に意識がはっきりとし始めた。重い頭をもたげるように立ち上がり,辺りを見回した。一面には鮮やかな緑が広がり,なだらかな丘陵地にいることがわかった。少し離れた所に不自然な青が目に入った。ハルが横たわっている。俺はハルを起こしに坂を下った。
「おい,起きろ。大丈夫か?」
肩を揺すり,二三度声を掛けると,ようやく気が付いたようで,瞼をゆっくりと開くと,ここは? と呟いた。こちらが聞きたい。どうやらハルは見た目相応に,もしくはそれ以上に幼いらしい。今更になって彼女を観察する余裕ができ,そんな感想を抱いた。
ハルは頭を犬のようにぶるぶると振り,両こぶしを天に高く掲げて伸びをした。あんまりに呑気な緩慢とした動作に,俺は安らぎを覚えた。ハルは腕をそのまま後ろに伸ばし,地につけて支えとした。
「ここがハルたちの世界,異世界だよ」
「異世界……」
風が通り過ぎ,一面の緑を銀色の線が流れていった。一瞬見知らぬ土地に迷い込んだような焦燥が胸を焼こうとしたが,見下ろした世界は,地平線の先の,その先まで続いているようで不意に美しさを感じ,どこまでも駆けていきたい気持ちに駆られた。
「気持ちいいね」
ハルはそう言ってまた背中から寝ころんだ。
「ああ」
俺は大きな心持になった。何もない。ここには何もない。全てから解放されたような,千里の道の一歩目を踏み出したような,偉大な気持ちになった。