プロローグ その6
本来であれば,死を覚悟する間もなく轢かれていただろう。しかしそうはならなかった。何より俺は奇妙な体験をしていた。視界は写真のように固まって,音は何も聞こえない。思考ばかりが働いて,一体自分の身に何が起きているのかもわからない。五感は一つとしてまともに機能していない。鼓動の早まりすらも知覚できなければ,平衡感覚すら定かでない。疑問で満たされた心は,不安と焦燥を交互に浮かびあがらせた。俺は今起きていることを一つとして理解の器へとあてはめることができなかった。
一瞬が無限に感じられ,得体の知れない恐怖が芽を出したころ,大きな変化が訪れた。
突如として目の前の空間が楕円に切り取られ,目を焼くような眩い光が差し込んだ。瞼も閉じられず,まるで拷問のような時が過ぎると,中から女の子が姿を現した。水面から姿を現すように,上半身だけの姿で現れた少女は空をもがく様にバタバタと腕を振っている。次第に這い出るような形で全身を現した。少女は立ち上がると,脚をぱたぱたとはたき,こちらを見た。固定された視界の端にそれを認めるのに苦労した。
こちらへゆっくりと近づき,とうとう真正面に立つと,なにやら口をぱくぱくとしている。それが終わると快活な笑顔を見せ,俺の混乱した頭の中に小さな安らぎを一瞬もたらした。
そのまま何もない時間が流れると,少女は思い出したかのように両手を組み,祈るように目を閉じた。俺はこの少女の動向に集中していた。先ほどまでの恐怖を忘れてしまうほどに。そしてこの少女の正体を明らかにしようとした。しかしそれはまたも不可解な現象のために中断された。
「聞こえる? 初めまして! ハルだよ!」
脳内に突如聞き慣れぬ声が差し込まれた。俺は再び混乱した。しかし僅かに残された理性が,声の正体と目の前の少女を結び付けようとしていた。これはこいつのせいなのか? 疑問が言葉となって頭をよぎると
「そう。ハルの声。心に語り掛けているの」
混乱は収まらず,思考の歯止めが効かない。なぜ身体が動かない? 怖い,一人にしないでくれ! お前は何者だ? 今一体何が起きている!?
どれも脳内を支配する大きな情動であったが,それ故に言葉には変換できない形而上の感覚であった。
「落ち着いて。でもあまり時間がないから,ハルだけが話すね」
少女の声が再び響くたび思考は中絶され,それだけに彼女の話に集中せざるを得なかった。
少女の話はなかなか要領を得なかった。おおよそ現実的でなく,またそれを認めるのに充分な知識を持っていなかったからだ。
まず一つに,今置かれている状況について知らされた。世界は今,時が止まっており,このハルという少女だけがその拘束から逃れ自由に動けるということだった。また,この瞬間に意識があるのはハルと俺の二人だけであるらしかった。
次になぜそんなことになったのか。この時が止まった原因はハルであった。俺が子供を救った(らしい)後に車に轢かれる間際,時を止めたのがハルだと言うのだ。
俺はここまで話を聞いて,もどかしさを感じた。時間が止まるなど,フィクションにも程がある。そして何故時を止めたのか。その説明を聞いた時,あまりに荒唐無稽であり,それこそ俺には無関係な話だと思った。
ハルは自らを別の世界から来た妖精だと言い,俺を別の世界,異世界へと連れていくというのだ。異世界にはハル以外にも妖精がおり,神隠しのように異世界へとこの世界の人間を連れていくという習わしがあるという。ハルは俺を選び,俺はまさにこれから異世界へ行くというのだ。
ここまで話してハルは閉じた目を開き,こちらを見た。さらさらと滑らかな金色の髪が小さく揺れる。
俺は異世界に行くより他はない。ハルの誘いを断れば,止まっていた時間は動き出し,俺は車に轢かれてしまうというのも確からしい。長くは迷っていられない。時を止めていられるのも長くはないという。
ハルの目はこちらを真っ直ぐに捉え,静かに答えを待っている。いつしか混乱は治まっていた。俺はハルの誘いを受けるのであった。