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プロローグ その5

 信号が青に変わった。二人の女子小学生がこちらに渡ってきた。俺らは渡らなかった。少女らの会話はノイズとして耳を抜けていく。雨が傘を叩く音だけが残った。


「本当を言うと」


俺はこれほど重い口を開いたことはない。


「最初は嫌だった。俺は昔から疎まれてたからそっとしておいてほしかったんだ。ようやく高校でそれなりに馴染めてきたのに,それがぶち壊されるんじゃないかって,怖かったんだ。実際今日と似たようなことがあって,それ以来誰もが俺を陰で馬鹿にしてたんだ。中学の頃の話だけどさ。だから高校ではそうならないようにして,やっと平穏になったのを,今日で終わらせてしまう気がしたんだ。


 でも同時に,本当の自分を知ってほしいと,急に思ったんだ。だから今日は,付き合った。ボウリング場で,もうダメかと思った。でも違った。お前らが笑ってくれて,初めて失敗に対して,なんていうか,苦しい気持ちじゃなかったんだ。不思議だった。知らない感覚だった。しばらくどうしていいか分からなくなっちまった。でも今は,来て良かったと思ってる。


 だから,今日は,本当に楽しかったよ」


高橋は俺が話している間,一度も目を離さなかった。そして俺が話し終わると,顔のこわばりが緩むのが分かった。そして深いため息をつき


「よかった」


と心底ほっとしたように,にこりと笑ったのだった。


「俺も楽しかったよ。酒井があんなに笑ってるの初めて見たし,相内は珍しく緊張してたな。今日努力を誘おうって言いだしたのもあいつだったし。真田はいつもあんな感じだけど,なんかいつもより楽しそうだった。


 努力。中学までは,言ってしまえばみんなガキなんだよ。でも高校は違う。俺らはお前を受けいれるよ」


当然というように,彼の左手,握られたこぶしが,俺の胸をとんと叩いた。


「俺らさ,みんな努力のこと尊敬してんだ。気付かなかったろ? 先輩も後輩も,誰もがお前のすごさに気付いてないんだ。でも俺らはさ,いつもお前がすごいって思ってたんだ。お前は確かに不器用かもしれないし,それで迷惑をかけてきたのかもしれないけれど,今は違うだろう」


彼の言葉は次第に熱を帯び,そしてそれは真っ直ぐ俺の心に届いた。


「俺らは全部は知らない。でも今日少し知れた。そして今も教えてくれた。だから……。だから改めて俺らと,友達としてもっと遊んだり,もっと頼ったりしてくれよ」


そう言って彼ははにかんだ。細めた目の奥には慈しみが眠っている気がした。


「わかった。約束する」


俺は高橋の持つ大きな熱量を全身に受け,熱された血潮が上気して,目頭が熱くなったことに悟られないようにそう答えるのが精々だった。


 信号が再び青に変わる。


「じゃあ俺,こっちだから」


高橋は小さく指を差し,向きを変えた。車のライトがストロボのように彼の顔を際立たせている。

「また明日,学校でな」


もう何度も交わした挨拶のような調子で言った。


「おう。またな」


高橋は横断歩道を渡り切ったのち,もう一度こちらを振り返って笑った。


 信号が変わり,俺は学習塾の方へ歩き出した。


 俺は今日の出来事を反芻していた。相内のどや顔も,酒井がツボに入って動けなくなっていたことも,真田が大食漢であることも,高橋の見せた笑顔のことも。


 ぼんやりと,体の動くままに任せて歩いていた。俺の歩く少し前には,背の低い,黄色い傘をさした少年が,傘をくるくると回しながら進んでいる。それを見るともなしに見ていた。どこかからヨッシーと呼ぶ声が聞こえた。すると傘は回転を止め,少年は左に反転した。傘に隠れていた横姿を現し,おーいと言って手を振った応えた。


 そしてわき目も振らず駆け出した。そこは二車線で道幅が広く,車通りも少ないため,スピードを出す車が少なくない。いつ事故が起きてもおかしくないと,近所の人間がよく話している場所だった。雨は視界を白くぼやかしている。一台のスポーツカーを見たときには,俺は走り出していた。


「危ない!」


誰かが叫んだ。俺はなぜ走り出したかを,正しく説明することはできない。なぜあの時何もしなかったのかと問われた方がよっぽど上手く説明できるだろう。とにかく俺は少年の元へ走り出していた。視界に映るすべての景色は速さを失い,雨粒が線から点へと変わり,音が無限に遠のいて,不思議な全能感が全身を支配した。さっきまで遠くにいたはずのスポーツカーはもうすぐそこに来ていた。暗がりの車内に,驚きの顔が一つ,悲鳴を上げている顔がもう一つ,はっきりと見えた。少年はもう目の前にいる。俺は両手を彼の両脇の下に差し込み持ち上げた。走ったままの,そのままの勢いに任せて走り抜けることが出来ればよかったが,生憎なことにそこまでの筋力を腕に回す余裕はなかった。ぐっと足に力を込め,その場に思い切りねじり込む。自らを軸に,バケツの水をぶっかけるように,ぐるんと少年を振り投げて,自分の持ってきた運動エネルギーを全て彼に託した。そこから俺はどうあがいても無力となった。


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