第一話 その9
旅は順調に進み,出発から二日目の夕方に宿場町に着いた。この後は山を越えるのみである。
道中は何事もなかったが,慣れない野営には疲弊した。トイレが無いことや,風呂に入れないことが,こんなにも精神を疲れさせるとは思わなかった。自分の今までの生活がいかに恵まれていたかを痛感した。それだけに町についた時の安心感は大きかった。しかしまだ山越えが残っている。そのことを考えると,素直に安心しきれずに,もやもやとする感じがする。
夕食を済ますと,リリアンと手合わせをした。これは旅の間,俺が願い出たことだ。リリアンは名門の貴族の出身で,剣術に秀でていた。異世界には修行の概念は無いようだが,稽古に近い概念はあるらしく,一家相伝の魔法や技はそうして伝えてゆくらしい。リリアンにはそうして手合わせをしてもらった。リリアンの技量には少しも及ばないが,戦うという意識やこの世界での戦い方はそうやって磨いた。リリアンもまた剣を交えては厳しく,戦うことの意味を教えてくれた。
翌朝,日の出とともに目が覚めた。顔を洗ってから素振りをしていると,リリアンがやってきた。
「おはよう。朝から精が出るわね」
「うん。どうにも習慣だから」
「今日から山を登るのよ? あんまり頑張りすぎないでね」
「ありがとう」
それだけ言って,リリアンは馬小屋の方へ行ってしまった。リリアンはこのように人に声を掛けて回るのだ。イーサンの優しさといい,リリアンの人格といい,俺にはまだ学ぶべきことがたくさんある気がした。
木々に囲まれた町を出,少しづつ傾斜がつき,次第に道は鬱蒼としてきた。安全が保障されているのなら,美しい散策道としてありそうだが,視線の通らないために奇襲を警戒しなくてはならない現状はみなの精神をすり減らした。会話は少なくなり,歩みも遅くなった。
少し開けた所につき,そこで昼食をとった。予定より進みが遅いらしく,午後は歩みを早めることになった。ハルとリリアンは隊員たちを励ましにいった。
「なにか妙だぜ」
イーサンは呟く。
「何が?」
「話によると馬の脚が重いらしい。雨が降った訳でもないのに」
「なにかいるのかな。獣とか」
「わからん。なんにせよ気を引き締めねえと。ドリョク,お前も何か気付いたら教えてくれ」
「わかった」
晴れ渡る空とは対照に,俺は焦燥に似た不安を感じていた。
結局この日は何も起きなかった。しかしどこか腑に落ちないでいるイーサンは野営の間も気を張っていた。超えるべき山は決して高くないが,なかなか終わりが見えない。俺はイーサンを心配したが焚火を見ているうちにとうとう眠ってしまった。
夜が明け,朝食をとっていると,先遣隊から報せが入った。予定していた道に落石があり馬車が通るには不都合だという。商隊長は日程を気にしたが,迂回路を行くと決断した。落石程度,魔法で何とかなりそうなものだが,摩耗したところを襲われることを懸念すると迂回する方が安全だという判断に基づいての決定だった。
それは昼過ぎのことだった。隊全体が慣れない悪路に疲弊し,一時休憩を取ろうとした頃である。左に山肌を見ながら進んでいると襲撃を受けた。右手側の森から多くの矢や石が飛んできて,なにかが一斉に飛び出した。それは体高が腰の高さほどで,吊り上がった目,長くとがった耳,でこぼことした顔を持ち,腰巻と各々弓や小剣を身に付けた小人のようなものだった。
「ゴブリンだ!」
誰かが叫ぶのと同時にイーサンたちも飛び出した。俺はハルと共に馬車の陰へ隠れた。
「進め! この先に開けた場所がある! 森から離れるんだ!」
商隊長が怒鳴り,馬は嘶いて走り出した。俺は途端に緊張しだした。何もしていないのに呼吸だけが荒くなって苦しい。イーサンたちは傍目には優勢に見えた。ゴブリンと呼ばれた敵をいなしながら商隊を背にしながら付いてきている。俺はほとんど無意識に,腰に差した木刀を握っていた。その手は自分のものとは思われないような震え方をしていた。
商隊長の言う通り,開けた場所に出た。視界が広がり,暗がりからの奇襲を恐れる必要がなくなった。辺りには土埃とゴブリンの血の匂いが漂いだした。ゴブリンの勢いは未だやまず,イーサンたちに疲れが見える。隊員たちも固唾を飲む中,何か重いものを地に叩きつけるような音が連続した。
「なんだ!?」
商隊長が辺りを見回し,俺も馬車の荷台に飛び乗って音の出処を探った。すると山陰から大きな人が──少なくとも二足で立ち,歩いてくる姿は人であるそれが現れた。
「サ,サイクロプス……!」
隊員の一人が絞り出すように言った。それは三階建ての建物が迫って来るような圧があった。まるで奈良の大仏が魂を得,東大寺を壊してまで目の前に立ち塞がったような,不気味さと恐ろしさを同時に味わうような気分だった。未だ経験のない恐怖を表現するには,自らの体験ではこれが精々である。次第に全容を目が捉える。やはり人の形をしており,顔の部分には大きな口と,それに負けないほど大きな一つ目がある。このアンバランスが生理的嫌悪感を煽る。それから頭部にはシロサイの持つような角が突き出ている。肉体は野生動物の,生への執着から生まれたような逞しい肉付きをしている。その強靭な肉体は,一歩歩むごとに,ずしりと音をたて,その密度の本物であることを知らしめている。なにより右手に握られた石の棍棒は,幾多の生殺与奪を可としてきたような念を感じる。
このサイクロプスの登場に,張り詰めた緊張の糸が限界を迎えた。それまで商隊長の檄により,またはイーサンたちの活躍により守られてきた隊員たちの平静が破られ,混乱をきたし,パニックが起こった。多くが叫び,逃げ出し,散り散りになってしまった。
不意に腕を掴まれた。驚いて睨み返すとハルであった。ハルはずっと傍に隠れていたのだ。その眼には不安と恐怖が感じられた。俺は急いで荷台を降り,ハルに寄り添い,肩に手をかけ,
「大丈夫だ。イーサンたちがいる」
と,そう言うので精いっぱいだった。
「イーサン!」
叫んだのはリリアンである。見るとイーサンはゴブリンの群れを離れ,一直線にサイクロプスへと駆けていく。
「そっちは任せた!」
イーサンはそう言ってさらに加速していく。イーサンの強さは知っている。あの魔法をもってすれば,あれほど大きな怪物も倒せるのかもしれない。
イーサンはサイクロプスに近づくと,大きく跳躍し,サイクロプスの眼前へ迫った。そして縦に斧を振り下ろす。しかしサイクロプスも棍棒で受け止め,イーサンは弾かれるように再び地に着いた。決着は容易につかなかった。互いに攻撃を放ち,または受け止め,それを繰り返した。決着がつかないということは力が均衡であること。すなわちサイクロプスは魔法の使えるイーサンと同等の力を有しているということである。
イーサンの空いた分だけリリアンたちは苦しそうだった。それでも少人数でゴブリンの群れを抑えつけているのは流石である。イーサンも,一人であれほどの怪物を相手に戦っているのを見ると,まるで別世界の人間であるようだ。俺は言いようのない無力感を覚えていた。
均衡は唐突に破られた。サイクロプスの横薙ぎの攻撃に間に合わず,イーサンはそれを右腕で受け,そのまま二十メートルほど吹き飛ばされ木に激突した。
「イーサン!」
思わず叫んだ。サイクロプスは心なしか不敵に笑った気がする。
イーサンは立ち上がったが,右腕をだらりと下げている。骨を折ったようだ。それをサイクロプスが追い打ちをかけるように,棍棒を両手で握り,振りかぶって潰そうとイーサンめがけて叩きつけた。
「んんんん! Power!」
イーサンは折れた腕で,それでも立ち向かった。野球のフルスイングのように両腕で斧を振った。
両者の渾身がぶつかり合う。長い均衡が訪れた。互いの接点からは大きな閃光が連続している。
しかし,形勢はイーサンに不利であった。次第に棍棒はイーサンに近づいてイーサンの鼻先に触れそうだ。イーサンは身体をひどく反らしていて,人体はあのような形になっては元に戻らないのではないかというほど,地に背がつかんばかりである。このままではイーサンは負ける。いや,死んでしまう。それは,今まで感じていたこと以上の恐怖であった。大事な友を目の前で失う,それほど恐ろしいことはない。何より自分が何もしないで失うことの恐ろしさは想像を絶するだろう。嫌だ。心の中に,幼い自分がいて,それが本能として泣き叫び出した。俺は,まだ,イーサンと共にいたい!
「イーサン!」
叫ぶと同時に俺は駆け出していた。
イーサンは今にも圧し潰されそうだった。いくら走っても一向に距離が詰まらない気がする。自分に走りの才能があったならば。不意に自らを責める感情が溢れてきた。視界の中心に捉えたイーサンはずっと遠く,ともすれば世界全体が俺を置いていくように,景色が遠ざかっていく。果たして俺の足は,本当に地を蹴っているだろうか?
「努力!」
呼びかけられた声にはっとして,景色は再び形を取り戻した。見るとハルが羽を出して並ぶようにそばを飛んでいる。
「これ!」
ハルは叫んで拳を突き出してきた。それは美しく光を放つハルのペンダントだった。俺は全てを理解した。
「わかった!」
ひったくるようにそれを受け取ると,ハルはバランスを崩したのか勢いそのままに激しく転んだ。
「お願い!」
ハルの声を後ろに聞き,
「Effort-Effect-on!」
最後の望みをかけ,俺は叫んだ。
全身が内側から沸騰したかのように熱くなり,力こぶを作った時のように,筋肉の張りが起こった。駆けて蹴り出した右足が次の一歩を踏み出そうと地に着いた時,今でもその感覚を忘れずにいるが,足の五指が土を,猛禽の爪が肉に深く食い込むように,強くつかんだのが分かった。縮めた筋肉のバネは大きく地面と反発し,俺は厖大な推進力を得て加速した。耳元で風を切る音が暴れている。いつまでも遠くにいたイーサンのもとに,ようやくたどり着く権利を得たような気になった。距離はみるみる縮まった。サイクロプスはイーサンを潰そうと必死でこちらに気付いていない。体重を乗せようと屈んでいて頭の位置はやや低い位置にある。俺は遮二無二にそこへ飛び込んだ。大きく身体が飛び上がり浮遊感に包まれた。
「この野郎!」
空中で木刀を面打ちのように,サイクロプスめがけ打ち下ろした。ボガッ! と鈍い音がして,サイクロプスの角の付け根に命中した。
「アアアアア!」
サイクロプスは身体を仰け反らせた。俺ははじかれ尻もちをついた。
「よくやった!」
イーサンは山をも震わすような大声を上げ,ぶんと斧を振り抜いた。棍棒は宙を舞い,ずしんと森の奥に沈んだ。
「ふん!」
イーサンはためを作り大きく跳躍すると,サイクロプスの眼前で止まり,横一文字に斧を振った。サイクロプスの首が真上へ刎ねた。
血飛沫をあげ背中側へ倒れたサイクロプスの亡骸は地を揺すった。
それからは早かった。士気を高めたリリアンたちはゴブリンを撃退し,ようやく危機を脱した。
夜になった。ささやかながら宴が開かれた。今日の勝利は皆に活力を与えた。中央に大きな篝火がたかれ,車座になって飯を食った。多くが酒に酔い,俺は勝利に酔っていた。
「あん時ぁダメかと思ったがよ,ドリョクがやりやがった! こいつは立派になるぜ!」
しきりにイーサンは俺の肩を叩いては高らかに笑う。そのたびにみなが褒めそやしてくるから顔がくすぐったい。ハルは疲れたのか,俺の膝の上で眼を擦っている。俺は手元にあった誰のものかもわからないジョッキを一気に飲み干した。強いアルコール味がする。途端に体が上気して,視界がぐらりと揺れた。ハルを抱えながらごろんとすると,なんだかふわふわする。目を閉じるとみなの笑い声が聞こえる。不思議と心地いい。目を開くと,満天の星が空を埋めている。視界を上にやると月が三つ,それぞれが三角形の頂点のように並んで浮かんでいる。ひどく酔ってしまったようだ。
「月が三つに見える」
そう呟くと,
「ハハハ,なにを当たり前のことをいってやがる」
と笑われた。そうか。月は三つだったか。その三つの月は妖しくも美しかった。笑い声,木の爆ぜる音,時折走る風の音,天上の美しい夜空。胸元でハルが寝息をたてだした。俺は大きく息を吸って,吐き出すころにはもう眠りについていた。
朝,少し寒くなって目を覚ました。辺りはうっすらと白い霧がかかっている。バケツの水で顔を洗うと,昨日のことをだんだんと思い出してきた。俺は自分の魔法を使い,あの大きな怪物へ一発喰らわしてやった。手に残るしびれがその証拠である。素振りをしようにもしびれと,二日酔いがあり,もうひと眠りしようかと考えあぐねているとイーサンとリリアンがやってきた。
イーサンはハルを左手で肩に担いでいた。ハルはキャッキャッと笑っている。イーサンがついてこいと言うので,草木をわけて奥に進むと,視界の開けた所へでた。
そこは山のふもとを一望できる場所で,眼下には広大な緑が広がっている。日がまだ昇って浅いのか,柔らかで優しいオレンジ色が降り注いでいる。
「ホレ,見てみな。あれが目的の都市,バールバシラだ」
そこには遠目にもわかる立派な街並みが見えた。




