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第一話 その3

 ナートリへようこそ。そう言って二人は道を開けた。日も暮れようかという時分であるが,街は活気に満ちていた。石造りで三四階ほどの高さをもつ建物が並び,ガス灯であろうか,立ち連ねている。馬の嘶きが聞こえ,振り返るとすぐそばを馬車が抜けていった。行き交う人々の格好は古風で,外国の童話の絵本に出てきそうだという印象を受けた。夕食の準備のためか,空腹を呼び起こす匂いがただよってきた。俺はすっかり気圧されてしまった。ここいらにある建物よりもずっと大きな建物の存在を知っていながら,その威圧感めいたものに圧倒された。見慣れぬ人々が作る日常の色が強くなればなるほど,俺は非日常――異世界へと放り込まれるのである。

 ハルはふらふらと歩きだしていた。青のワンピースはこの街には余り溶け込めておらず,見失うことはなさそうだった。ふと足を止めたと思ったら,そこは飯屋のようだった。すっかり暗くなり,ガス灯の明かりがゆらゆらと揺らいでいる。飯屋からは何とも言えないいい匂いが流れてきて,喧しい笑い声も漏れている。ハルはニコニコとしてそのまま店へ入ってしまった。俺は慌てて後を追った。

 店内は薄暗かった。大柄な男たちや,若い男女のカップルなどで席は埋まっていたが,隅の方に背の高いバーテーブルと椅子が一組空いていたのでそこに座った。飯屋というよりは居酒屋の雰囲気のある場所では少し落ち着かなかったが,料理が運ばれてくると,そんなことも忘れて空腹を満たすことに必死になった。ハルは涙でも流すのではないかという程うまそうに食べて,食後のデザートを食べると,満面の笑みを見せて,ごちそうさまでしたと言った。

 店を出ようかというところで問題が起きた。金の問題である。ハルが躊躇うことなく店に入っていったので,てっきり支払いはハルがするものかと思っていた。それに異世界と言うくらいだから俺の持つ金に価値は無いだろう。実際ハルは支払うつもりだったのだ。女王様からもらったおこづかいがあるから大丈夫! とデザートを奮発したのだから。しかし彼女は次第に顔を青くしていき,

「おとしちゃったかも……財布」

と言ったのである。

 若い女のウェイターが卓上の食器を片付けていく中,二人して下を向き,冷や汗で小さな水溜まりを作っていた。人生初の食い逃げをするかなどを考えるほど追い込まれていた。一人のウェイターに声を掛けられたとき,とうとう耐えられなくなって全て洗いざらい話すと,店の女将が現れた。女将は俺ら二人を見ると,笑って

「さて,どうしてくれようか」

と呟いた。俺は思わず土下座をしていた。武道の経験からか,流れるような所作であったと思う。女将の凄みは見事であった。刻まれた皺には重みがあり,声はどこまでも逃がすまいという意思を淀みなく伝えるだけの力が溢れていた。

 店内は次第に静まり,このやりとりを見守り始めた。俺は何故謝っているのか分からなくなってきた。何も考えずにハルに全てを任せていたのが悪いのだが,そこまで気は回らず,

「申し訳ありませんでした!」

と女将の言葉(どれも正論であった)にひたすら同じ言葉を返していた。ハルは横でうつむいている。

「そうは言ってもねえ」

「本当に申し訳ありません!」

とにかく謝らねば! その思いが強まり,思わず前のめりに頭を下げたとき,ビリっという布が裂ける音がした。音の出所は俺の尻である。ボウリングの時に破れた部分が広がったのである。水を打ったような静寂が場を支配した後,誰かの

「ふっ……」

という吹き出した音を皮切りに爆笑が店内を渦巻いた。俺は恥ずかしさで顔を上げられず震えることしかできなかった。ハルも,あははははは! と笑っている。お前が笑うのは納得いかん。上目遣いで女将を盗み見ると,口元を押さえ横向きにうつむいて震えている。

 みながたっぷりと笑い,徐々に落ち着きを取り戻していく中,

「あーはっはっは!」

と一際ゆったりと,大声で笑う人物がいた。注目は次第に俺からそっちに移る。

「おう。女将さん。ここは俺がこいつらの分も払うから見逃してやってはくれねえか」

そう言いながら大柄な男がゆっくりとこちらへ近づいてくる。その様を横目でちらと見た。男は朗らかな笑顔をしながら俺の背に手を置き

「兄ちゃん。名前はなんていうんだい?」

と聞いてきた。ずしりとした手の重みはしっかりと覚えている。


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