第一整
その日、藤倉ヒトミは祖父から受け継いだ整骨院での仕事を終えた後、隣接している柔道場に顔を出した。
「翔太、台風が来るから今夜は早めに練習を終えてあげたら?」
「ああ、そうする。今終わる」
高校生と乱取り稽古していた井伊翔太が答えた。柔道家としても治療家としても父の弟子だった翔太とは婚約していて藤倉家に婿養子となってくれる予定だったし、今は二人で柔道場と整骨院を切り盛りしている。ヒトミも白衣から柔道着に着替えて身体がなまらないよう子供たちが帰った後の道場で翔太と汗を流した。自宅も隣接しているので帰り道の心配はない。
「ハァ、翔太、もう一本」
「ハァハァ、いや、もう終わろうぜ。ハァ、疲れた」
「なによ、ダラしないわね」
「オレは6時からやってたんだぞ」
「はいはい」
ヒトミと翔太は稽古を終わることにして畳に正座すると、誰もいない上座へ一礼する。上座には季節で替える掛け軸があり、昨日までは風林火山だったけれど今日からは般若心経になっている。曾祖父が集めていた掛け軸に興味はないものの、倉の奥に死蔵されているよりはいいかな、と道場の雰囲気作りに使っていた。
「翔太、今夜も泊まっていく?」
「ああ、この雨だし、そうさせてもらうよ」
二人で道場から自宅に向かう。ヒトミの両親は幼い頃に事故で亡くなっていて、育ててくれた祖父も去年亡くなっている。昔ながらの日本建築の自宅は一人で住むには広すぎて淋しく、どうせ再来月には結婚する予定なので翔太を泊めることが多くなっている。台所に入るとヒトミは鍋を覗いた。
「彩ちゃんがカレーを作ってくれてるから、それでいいよね」
「海本さんは気が利くよな。窓口での評判もいいし」
そう言っていると海本彩花から電話が入ってくる。ヒトミとは小学校からの幼馴染みで今は整骨院で受付業務を勤めてくれている。昼に整骨院、夜に道場、日曜日は子供たちの試合や大会での救護係が多く入るという忙しい生活をしているヒトミを手伝って彩花は家事の一部までしてくれていた。
「もしもし、ヒトちゃん、遅くにごめん」
「いいって。カレー助かったよ、ありがとう」
「うん、ついでだから。けど、ごめん。遅くに悪いんだけど、うちのお祖母ちゃんがギックリ腰で動けなくて。診てもらえない? 遅い時間で雨も降ってるけど……ごめんなさい」
「いいよ、いいよ、私か翔太、どっちかが行く………」
言いながらヒトミは翔太の方を見た。開けたばかりの缶ビールを一口呑んだところだった。
「私が行くわ。翔太、もう呑んでるし」
「すまん」
電話の内容に想像がついた翔太が謝っている。
「翔太、お風呂の用意しておいてね」
「了解」
「一時間くらいで帰るつもり」
ヒトミは往療セットが載せてある自家用車で2キロほど離れている彩花の家に行った。
「白衣じゃなくて、こんなカッコでごめんね」
まだヒトミは柔道着のままだった。
「ううん、すぐ来てくれてありがとう」
話しながら居間で倒れ込んでいる彩花の祖母に応急治療をすると、歩いてトイレに行けるくらいには改善した。彩花がお茶とお菓子を勧めてくれたけれど、もう遅いので長居はしない。
「もう帰るよ。彩ちゃんが作ってくれたカレーもあるし」
「ご飯、まだだったのに、ごめんね」
「いいって」
「雨、ひどくなってるよ。泊まっていく?」
「ううん、カレーあるし、翔太も泊めてるし」
「……そう」
「じゃあね」
ヒトミは軽く手を振って車に戻った。ほんの2キロなので、すぐ帰れるはずだった。
「うあぁ、道が冠水してる」
けれど、最短経路が冠水していて迂回する。そして急に疲れが出てきたのか眠くなってくる。今日も朝から夜まで忙しかった。アクビが出る。
「ふぁ……眠い。事故ってもイヤだし、ちょっと寝よ」
道路脇に車を駐めて仮眠することにした。豪雨の音が逆に心地いい。
ああ、私は今、夢を見ているね、とヒトミは思った。感覚的に夢を見ているような気配だった。
「ここ、どういう場所……」
明るい園にいた。
「これ庭? 自然の森林にしては樹木の密度が低い……足が痛くないし」
周りにはまばらに樹が生えていてブドウや桃がなっている。森というより果樹園だった。そして素足だった。なのに足の裏が痛くない。草のような苔のような地面は柔らかくて、そのまま寝ても平気そうなくらいだった。ヒトミは素足なだけでなく、衣服も着ていないことに気づく。
「なんで私は裸っ?! 道着は? ……どうせ、夢かな……微妙にリアルで微妙に幻想的な感じ……」
慌てて胸と股間を手で隠して、せめて葉っぱか何かで身体を覆うものを作ろうかと思ったけれど、周りに誰もいないのでヒトミは隠すのをやめた。裸なのに寒くもないし、暑くもない。
「疲れた……寝ようかな……夢中夢になるかな……」
歩き回るのも疲れるので地面に腰をおろした。やっぱり柔らかい。ベッドのような感触なので畳へ寝るように大の字になった。目を閉じたのに声をかけられる。
「女よ」
「っ…」
目を開けると大きな蛇がいた。一瞬驚いて身構えたけれど、どうせ夢だと思い直して再び寝転がる。
「女よ」
「…なに?」
ヒトミが問うと、蛇は樹になっている果実を尻尾の先で示した。
「あの実を取って食べてもよいぞ」
「………。露骨に罠ね」
「さあ、食べよ」
「…………」
ヒトミが考え込むと蛇が迫ってくる。
「さあ、さあ」
「うるさい」
顔を近づけてきた蛇の首をムズっと掴み絞める。その蛇の首は人間の男性ほども太いし体長は3メートルを超えている。ヒトミの身長は150センチあまりなので倍はあった。
「うっ? くっ、貴様。フフ、蛇を相手に絞めとは愚かな女だ」
嗤った蛇がヒトミへ身体を巻きつけてくる。ヒトミも応戦して絞め合いになった。蛇らしく巻きついて絞めようとするのに対抗してヒトミは亀のように身体を丸くして防御しつつ、右手で掴んでいた蛇の首を左手でも背部から掴み、さらに蛇の顎に自分の額を押しつけグイグイと反らせる。蛇の首を限界まで反らせつつ喉の方では動脈を狙って指を食い込ませていく。脊椎動物の頸動脈ならこのへんかな、という勘でキメていった。
「うくっくぅぅ…わ、わかった、待て! ギブ! ギブだ!」
蛇の尻尾がヒトミの肩をペシペシと叩いて降参の合図をしてくる。蛇との寝技に勝ったヒトミは手を離した。蛇が息を荒げている。
「シュー、なんという恐ろしい女だ、まったく」
「あんたは何で喋ってるの? 蛇のくせに」
「………お前は聖書とか読まんのか? 最初の少しくらいは」
「うん、ぜんぜん」
「そうか………まあ、あの実を食べてみろ」
「………」
「さあ、美味いぞ」
「お腹は空いてるのよね。カレーを食べ損なったし……」
空腹だったのでヒトミは手を伸ばしたけれど、蛇が勧める実とは別の実を取って囓った。
ヒトミは森の中にいた。
「……これは夢じゃない……」
暗い森で足元も危ない。幸い裸ではなくて柔道着を着ていたし靴も履いている。森なので樹が密生しているけれど、食べられそうな果実は一つもない。
「はぁ……お腹空いた……喉も渇いたし…」
しばらく彷徨ったヒトミは危機感を覚えてきた。どうもこれは夢ではない気がする。喉の渇きや空腹感は強くなってくるし、ジッとしていると寒いけれど動き回ると汗をかく程度の気温で日が傾くと、より寒く暗くなってくる。
「やみくもに動いてもダメ……ちゃんと考えて動かないと死ぬかも」
ヒトミは地形を見る。見通しは悪いけれど山脈が見えた。そうして周辺の高低差を見極めると低いところを目指した。
「あった」
狙い通り小川がありキレイな水が流れている。川幅は1メートルも無い小さな川だったけれど清流に勢いはあり、水は澄んでいる。
「飲めそう。沸騰させる道具も時間も……脱水症状の方が怖い」
軽い頭痛を覚えていたヒトミは小川のそばに伏せると唇を直接に流れへつけて水を飲んだ。
「あーあっ! 美味しい……はぁ、生き返ったわ」
少し休憩して考える。
「この川を下っても、すぐに夜に……今は動かない方がいい。となると火を熾す方がいい」
獣と寒さから身を守るため火を熾すことにした。
「ライターとか便利なもの無いから……」
煙草は吸わないのでライターもマッチも持っていない。持ち物は柔道着と下着、靴下、靴しかない。財布も電話も無く、車や家の鍵さえない。ヒトミは火を燃やすための落ち葉や枯れ草、乾いた木の枝を拾い集め、それから手頃な生木の枝を折る。
「紐になりそうなのは、これしかないか」
柔道着の下ばきから腰紐を抜き出す。その紐を使って生木の枝を弓状にした。そうして弓と、真っ直ぐな丸い小枝を組み合わせて高速で小枝を回転させられることを確かめると大きめの乾いた枯れ木を石で割って板状の面を作り、靴と靴下も脱いで素足になって板を押さえつける。
「急がないと暗くなる」
ヒトミは柔道試合に臨む前のように両頬を叩くと、弓と真っ直ぐな枝を持ち、火熾しを始めた。苦闘すること30分ほど、ようやく火が熾せた。
「ハァハァ……間に合った」
あり合わせの道具で火を熾すなど道場の小学生たちを連れて参加したキャンプで挑戦したくらいだったし、そのときは摩擦熱で煙りを出すことはできても結局はライターに頼っていた。今回は諦めるという選択肢が無く、汗だくになっていたし手も痛い。それでも火を大きくして焚き火にすると、それを四カ所に分けて自分を囲むようにした。
「これで虫もクマも近づきにくいよね、たぶん。……誰か発見してくれないかな」
だんだん淋しくなってきて一人言が増えてくる。
「ここ、どこなんだろ……あ、星を見れば位置がわかるかも」
ヒトミは焚き火から離れて星空を見上げ、愕然とした。
「っ、北極星が無い……北斗七星も…ってことは南半球……けど、南十字星も無い……」
さらに驚く。
「月が二つ?!」
青い月と赤い月が出ている。
「ここは地球じゃない……」
さすがに頭を抱えて悩む。
「………とにかく休もう」
悩んでも解決できそうになかったので、とりあえず空き腹を撫でつつ火のそばで横になった。地面は硬かった。それでも、とても疲れていて眠れた。