一日の始まりはエレベーターより
目の前にエレベーターがある。
いつも朝のエレベーターに乗るときは気持ちが躍る。それは会社に行って上司に怒鳴られるのが楽しみな訳でもなければ、満員電車で圧死しそうになるのを心待ちにしているわけでもない。この時間にエレベーターに乗るのが楽しみなのだ。
僕が住んでいる部屋は八階。このマンションの最上階だ。だから多くの住人に会うことが出来る。いつも同じ人と一緒になるわけではないが大体は同じ人だ。
今日は誰が乗るだろう。そんなことを思っていると目の前のドアが滑らかに開く。僕は静かな深呼吸をして中に入る。僕が一階のボタンを押すと閉ボタンを押す前にドアが閉まる。うん、いつも通りだ。
ゆっくりと下に落ちる感覚が僕の気持ちを盛り上げる。
『7』
すぐ下の階だ。いつもこの時間は七階をスルーするのに珍しい。
入ってきたのは銀縁眼鏡の素敵な白髪交じりの初老の男性だった。にこやかな笑みで、おはよう、と言ってくれた。僕もそれに挨拶を返す。会社員だろうか。折り目のきれいなスーツを着ている。恐らく奥さんがいつもちゃんと手入れしてくれているのだろう。しかし何故こんなちゃんとした感じの男性が今日だけ違う時間に乗っているのだろう。
再び下に落ちる感覚。
そういえば妻が言っていた。最近定年退職をして嘱託で仕事場が遠くなった方がいると。きっとこの人だ。確かに仕事場が変われば時間が変わるからな。
『6』
あれ? 六階に止まらなかった。いつもはランドセルを背負った小学生の女の子が乗ってくるのだが。
あ、そっか。今日から夏休みだ。僕の夏休みはまだまだ来ないのに。
『5』
ドアが開くと現れたのはドレッドヘアのお兄ちゃん。色の濃いサングラスをして有名なメーカーのヘッドホンを首にかけている。腰パンがえげつない。一見怖いこの男性だが僕は彼が嫌いじゃない。というよりも好きな部類だ。その理由は半年前にさかのぼる。
会社の帰りで駅からマンションへの道を歩いていた時に泣いている男の子がいたのだ。僕が心配になり声を掛けようとしたときに彼は現れた。颯爽と男の子に近づいていく彼に不安を感じたが声を掛けられた男の子はすぐに笑顔になり会話を始めた。なんだか楽しそうだ。彼らの横を通り過ぎようとした時に僕はびっくりした。
ドレッドヘアのお兄ちゃんの声の高さに。小鳥のさえずりの様な声とはきっとこれだろう。目をつぶれば小学生同士が喋っているみたいにも聞こえる。マンションの入り口まで行った頃に振り替えると満面の笑顔を張り付けた男の子が手を振りながらお兄ちゃんに別れを告げているところだった。
きっと彼はいい奴に違いない。
『4』
ここはスルー。四という数は縁起が悪いということで人の住む部屋ではなく、マンションの会議や倉庫になっている。したがってこの時間にこの階に止まることはない。
『3』
入ってきたのは青いランドセルを背負った男の子。あれ? 夏休みじゃないのか? 僕の記憶違いか、さっきの女の子の乗る時間が違っただけか。よく見る男の子で六階の女の子と同じ校帽をかぶっているが。
『2』
ここの階が一番の楽しみだ。いつも同じ時間に一緒になるOLの飯島さん。今日も乗ってくるだろうか。
すると、三階の男の子がいきなり飛び出してすぐ近くの非常階段へ駆け出した。忘れ物をしたのか、夏休みが始まっていることに気付いたのか。ものすごい笑顔だったから後者だろうな。
代わりに入ってきたのは僕の予想通りで飯島さんだった。彼女も入ってきたときに、おはようございます、と言う。スーツの男性が挨拶を返し、ドレッドヘアのお兄ちゃんは軽い会釈をする。僕も挨拶をしたがその声は上ずっていなかっただろうか。
いい香りがする。彼女が二階ではなく八階に住んでいたらと何度思ったことか。
僕が初めて彼女と会ったのは実はエレベーターの中でもマンションの中でもない。僕が就活をしていた時に同じ会社を受けていたのだ。その後マンションの中で再会した。最初に気付いたのは彼女の方で、一階でエレベーターを待っているときに声を掛けられた。それからはエレベーターで二人だけの時は会話もするようになり、今でもその関係は続いている。残念ながら同じ会社ではないが。
いつか食事にでも誘ってみたいな。
『1』
思いを巡らしているとエレベーターが止まりドアが開く。
マンションの出入り口は何個かあり、皆バラバラの方向から出ていく。僕は昼食を買ってから会社に行くためパン屋さんに近い扉へ向かう。
後ろから飯島さんの声。
「今日もお仕事頑張ってくださいね」
「はい、お互い頑張りましょう」
こうして僕は飯島さんに声を掛けてもらうたびに、前よりも早く家を出るようになってよかったと思うのだ。上司に怒られる頻度が減ったし、おいしいパンを買う余裕ができたし。何よりも一人暮らしの僕には女性からの頑張ってくださいがよく効く。
これが僕の一日の始まりだ。