14/01/17 老僧山の怪を退けし事
お題:「スフィンクス」「こうもり」「香木」
昔昔──たった三百年ほど前の話だが。
ある山の奥深くに寺があった。大きくとも立派とは言い難いその寺には、年老いた徳高い和尚と小坊主が二人住まっていた。
かつては多くの檀家を抱えていたが、麓の城下町が賑わい出し、和尚の許で修行した若い僧がより近くで開山すると、めっきり参拝の数も減ってしまった。今では托鉢をして何とか食いつないでいる。
さて、この日も日暮れまで街を巡り歩き、その帰路である。
真っ暗な山道を提灯一つで登っていく。和尚は齢七十をとうに越しているが健脚で、米を抱えながらも軽軽登る。一方の小坊主は野菜を抱えてひいひい言っている。何も足場の悪い坂道が故ばかりではない。
「和尚様、何か厭な気がしますよう」
頭上を蝙蝠が掠めていって、小坊主は短い悲鳴を上げる。ぶるぶる震え涙声で囁く。しかし和尚は足を止めず返した。
「おお、するする、するのう。さては獣か物の怪か」
ほほほと笑う。からかわないで下さいましよう、と小坊主は、縋り付こうにもすいすい登って行かれ、いよいよ泣き出した。
しかし、小坊主の言う事は確かだった。
獣の体に女の顔をした物の怪が、草木を薙ぎ倒して坊主達の行く手を塞いだ。
「で、出たぁ」
小坊主は腰を抜かし、野菜を投げ出して引っ繰り返った。今にも沫を吐いて死にそうなほど仰天している。ところが和尚の方は、すっかり落ち着き払って、物の怪とじっと対峙していた。
「通りたいか」
物の怪が言う。
「通りたいのう」
和尚が答える。
「ならばこの問いに答えよ。『朝は四つ足、昼は二つ足、夜は三つ足で歩く』この者は誰か?」
「ほう、謎掛けか」
ふむ、と顎を撫でてから、間違えればどうする、と問い返した。
「食い殺してやる」
物の怪は涎を垂らし、小坊主がぎゃあと叫んで遂に倒れた。
ほほほ、と和尚はまた笑った。それは困るのう、とまるで他人事の様に言いながら、また問う。
「では答えねばどうする」
「それならば、ここは通さん」
「なるほどな。では今晩の所はひとまず引き返すとするか」
くるりと背を向けた和尚は、小坊主の投げ出した野菜と、ついでに小坊主とまでを抱え上げて、ひょいひょい山道を下り始めた。
物の怪は別段襲い掛かるでもなく、ただその背中を見送っていた。
その一晩は小坊主の生家に宿を取った。夜更け頃にはっと目覚めた小坊主は、和尚から事の次第を聞き震え上がった。
「どう致しましょう。これでは寺に帰れませぬよ」
「何、心配は無い。謎掛けに正しく答えれば良いのだから」
「わたしには全く見当も付きません。和尚はお分かりですか?」
「さあのう」
白々しく首を傾げて、何やら思惑ありげににたりと笑う。教えて下さいまし、とせがむ小坊主だったが、和尚はそれっきり何も言わず、夜が明けるまで考えに耽っていた。
そして翌朝、日が昇り始めた頃、和尚は小坊主を使いに走らせた。
また晩に、寺へ続く道を登る。今度は小坊主を心配した父親が一緒だった。
昨晩と同じ所に至ると、やはり物の怪が現れた。
「坊主、答えは分かったのか」
刀を構える小坊主の親を止めながら、和尚は言葉を返した。
「どうかのう。ところで、わしが正しく答えたならば、お前さんはどうしてくれる」
「正しく答えられたならば、道を空けよう。そして死んで恥を拭おう」
「やはりのう」
和尚は顎をさすった。
ううむと唸りながら、和尚は考えた。例え物の怪と言えど、死ぬと当人が言うのだから、死なせてしまったら殺生である。それはしたくないと考えていた。
そこで和尚は手を叩いた。
「ではこうせぬか。わしの謎掛けにお前さんが答えられねば、この道を通らせてもらう。答えれば、わしらを食って良い」
「待て。それでは筋が通らん。こちらの答えを聞くのが先だ。もしまだおかしな事を言ったなら、答えを待たずに食ってやる」
物の怪は白く鋭い牙を剥いた。ぎゃあ、とまた卒倒しそうになる小坊主を父親が抱き留めた。
「それは無理じゃろう」
「何故だ」
「お前さん、香の臭いが厭で出てきたのじゃろう? ずうっとわしらを見てきたが、とうとう我慢出来ずに出てきたのじゃろう。だから食えぬし近付けぬのじゃろう」
そう言いながら、和尚が一歩近寄ると、物の怪は一歩退いた。
今朝、小坊主を走らせた先は、かつて教えた僧の寺である。立派な寺から頂戴した伽羅でもって、小坊主のみならず和尚までも塗香していたのだ。
全ては和尚の見抜いた通り。物の怪はこの辺りに潜んでいたが、たまに昼と夜とを通り掛かる香の臭いに嫌気が差し、姿を現したのである。
むむ、と物の怪は口惜しげに呻いた。
「ならば何故、謎掛けを返そうと言うのだ」
「ほほほ。哀れじゃからのう。お前さんも迷惑したのだから、すぐ死なせてしまうのは気が引ける。じゃから、あいこにしようと言うのじゃ。わしの謎掛けに答えられたら、すぐに香を拭ってやるわ」
「むう、その分かり切ったかの如き口振り、気に食わん。ええい、良いだろう。お前の謎掛けを言ってみろ。すぐ答えて食ってやる」
そうかそうか、とにっこり微笑み、和尚は咳払いをして謎掛けをした。
「『ある夜ある子に字を読ませた。江と幾、二と女と呂は読めたが、比をヲと読み、和をム、牟をワ、乎をヒと読んで、他は読めなかった』この子は誰の子じゃ?」
物の怪はぎょっとした。小坊主と父親は顔を見合わせて首を傾げた。
分からぬか、と和尚は微笑んだ。
暫く考えた物の怪は、わからぬ、と言った。
「では通して貰おうかのう。もし答えが分かったならば、いつでも出てくるが良いぞ。その時、互いに答えを言い合おうではないか」
和尚が言うと、物の怪は渋々頷いて去って行った。
かくして、物の怪を退けた和尚は巷で評判となり、離れた檀家も戻り、寺は立派な佇まいを取り戻した。寺も、参拝者の行き交う山道も、常に香の香りが漂い、以降物の怪が姿を見せる事はなかった。
二十年の後、和尚はそれぞれの答えを、昔伴に物の怪と出会した坊主にだけそっと言い残して、遷化した。この答えは後生まで寺と共に語り継がれたが、決して誰も口を洩らさなかったという。
一日二日一話・第十四話。
またも無理難題をふっかけてきたオカン(chuugumi)に感謝を。
すっかり一日二日どころじゃなくなった一日二日一話。
「スフィンクス」と言えばかの有名な謎かけだよなー、「香木」ったら仏教だよなー、と安直に考えてこの舞台設定。
和尚の謎々の答え? あーうん。そうそう、それそれ。