夢で逢えたら
俺の名前は山田優雅。現在29才。群馬県X市の1Kのアパートで1人暮らしをしている。
今日は2026年3月18日(水)。
生産性のあることを何一つしないまま引きこもって過ごし、気が付けば夜の8時半になっていた。
俺は夜になると孤独を感じて辛くなる事が多い。灰皿には、タバコの吸い殻と寂しさだけが山積していく。やがて俺は夜の精神薬を麦茶で飲んだ。
寂しい……。
「こんな時、俺の部屋に誰か居てくれたらいいのに」と思うが、俺の住むアパートの部屋には常に俺しか存在しない。
ネット上の友人は何人もいるが、俺は物理的には常に孤独だ。
俺は今、椅子に座ってロングピースというタバコを吸いながら、頭の中で架空の彼女、つまり恋人を妄想していた。彼女は酒とタバコが好き。そして孤独で精神的に病んでいるが、それでも生きる事を諦めない強さの持ち主だ──。あと可愛い──。
だが、そのうち妄想がバカバカしくなって、俺は紫煙を吐いて独り言を呟いた。
「……まぁ、俺に彼女なんて出来るわけねぇか。無職みてぇなもんだしな。妄想、もうよそう」
俺は現在29才。一応1人暮らしではあるが、精神障害者であり、社会不適合者で現在は在宅の仕事を休職している。そしてアルコールとタバコに支えられながら生きている。※最近は節酒の傾向にある。
とりあえず俺という人間が「社会の底辺」に属する人間であることは主観的に見ても客観的に見ても明らかな事実だ。家族や福祉や医療のサポート無しには生きていけない。
現在の俺に付いている精神的な病名は「アルコール依存症」「ASD」「気分変調症」「双極性障害」の4つである。
精神科には月1のペースで通っている。そこで1か月分の薬を貰う。
正直、精神薬が効いている実感は特に無い。
基本的に俺はいつも生活の中で無表情だ。特に落ち込みが激しいとか、逆に気分が高揚するとか、そういう現象は今は起きず、ただただ虚無感に支配されている時間が多い。
まぁ、日々の暮らしの中で孤独を感じている人は俺だけじゃない。人間は本質的には全員孤独なのだ。だから人間には「寂しさ」という感情が本能的に備わっていて、仲間や共同体を作ろうとする。
『あなたが孤独で寂しいなら俺のアパートに遊びにおいで。宅飲みでもしよう』
と言いたいところだが、わざわざ群馬県まで来てくれる人なんているのか? 俺の友人たちはみんな県外に住んでいるぞ。
「──私が群馬県まで来たよ! 優雅、あなたは孤独じゃない! 私がそばにいるよ! 私も孤独!」
突然俺の背後から聞こえてきた甲高い女性の声に、俺は驚きながら椅子ごと振り返った。
そこに立っていたのは、さっき俺が妄想していた架空の彼女だった。
服装は上下グレーのぶかぶかのスウェット。そしてセミロングの茶髪。顔は可愛い。俺と同世代くらいに見える。片手には薄ピンクの可愛らしいバッグを持っている。
俺は唖然としながら、とりあえず疑問に思ったことを訊ねた。
「えっと、あ、あなたは誰ですか?」
「私は愛莉。優雅の彼女!」
「俺は孤独を感じすぎて頭が狂ったのか? ……今この瞬間、俺は統合失調症を発症したのかもしれない。愛莉さん、あなたは俺の妄想であり、幻覚・幻聴だ。実際には存在しない人物だ」
「そんなことないよ。ほら、私の手触ってみて」
そう言って、愛莉は俺に近づいてきて、右手を差し出してきた。俺はそれを軽く握った。ちゃんと手の感触はあるし、体温だって感じた。だが、【幻覚】【幻聴】だけではなく【幻触】の可能性だってある。謎は深まるばかりである。
俺はしばらく愛莉の手を握った後、ゆっくり離した。
すると、
「優雅の手、暖かい」
と愛莉が笑顔で言った。
「愛莉さんの手も暖かかった」
「ねぇ、私は優雅の彼女なんだから、“さん”付けはやめてよ」
「あ、じゃあ愛莉って呼ぶよ」
「うん」
「てか、なんで愛莉は俺の名前知ってるんだ? 初対面でしょ?」
「夢の中で何回も逢ったじゃん、私たち。だから初対面じゃないよ」
「夢……?」
「そう。夢」
俺は空中を眺めながら、自分が過去に見た夢を頑張って振り返ってみた。
確かに俺は今まで何度も知らない女性と2人でデートする夢を見たりしたが、容姿や声までは明確に思い出せない。白昼夢のようにぼんやりしている。
ところで、愛莉は「夢の中で何回も逢ったじゃん」と言った。
──つまり、今、俺は超リアルな夢を見ているのだろうか?
「とりあえず優雅のベッドに座って缶チューハイ飲む。お酒が無いと人生やっていけないからね」
そう言って愛莉は俺のベッドのへりに座って、バッグをベッドの上に置いた。そしてバッグから取り出した白いビニール袋から500mlの缶チューハイを取り出し、缶を開けて飲み始めた。ちなみに-196のレモン味だ。アルコール度数9%の酒。
「あ、優雅も飲む? 優雅の分も買ってきたんだ~」
「お~、ありがとう。じゃあ遠慮なく飲ませてもらう」
「何が良い? -196のレモンと氷結のレモンが何本かあるけど」
「じゃあ氷結で」
「わかった」
俺は椅子から立ち上がり、ベッドに近づいて、愛莉から氷結という缶チューハイを受け取った。またしても缶のリアルな感触と缶の冷たさを感じた。
これは現実か? それとも夢か?
疑問に思った俺は、椅子に座り直して、氷結のフタを開けて一口飲んで、愛莉の方を見ながらこう訊ねた。
「ねぇ愛莉。俺は今、夢を見てるの? 夢だとしたら、あまりにもリアルすぎる。かと言って、この状況が現実だなんてとても思えない」
「夢でも現実でも、どっちでも良くない?」
「なんで?」
「だって人間の人生そのものが長い夢みたいなもんじゃん。現実も夢も全く同じだよ。人生は長い夢。夢は短い人生。でしょ?」
「まぁそうだけど」
──人生は長い夢。夢は短い人生か。
「そんなことより、私はね、優雅がめっちゃ寂しがってるから会いに来たの。いっぱいおしゃべりしようよ。私が優雅の孤独を癒してあげる」
「ちょ待てよ。愛莉はなんて優しいんだ……」
「彼氏に優しくするのは当然でしょ。ところで優雅は最近どう? 相変わらず病んでる?」
「うーん。今は少し元気だよ。精神も安定してる。愛莉は最近どう?」
俺が何気なく訊ねると、愛莉は缶チューハイをベッドの木の部分に置いて、スウェットの両袖を肘付近までまくった。
その細い腕には、無数のリストカット・アームカットの痕があった。
「実は最近仕事のストレスで鬱なんだよね。昨日も腕切っちゃった。自傷癖は10代の頃から治らないの」
「たしかに、いっぱい自傷痕があるな。でもその自傷痕は愛莉が今まで頑張って生きてきた証拠だよ。お疲れ様」
「前に会った時も同じこと言ってくれたね」
「そうなの?」
「そうだよ。優雅は私の腕を見る度に『頑張って生きてきた証拠だよ』って言ってくれる」
「愛莉は今まで何回俺に会ったの?」
「何回だろう。覚えてないや。少なくとも100回は会ってるんじゃない?」
「愛莉には、その100回の記憶が全て残ってるの?」
「うん。私は全部覚えてるよ」
「じゃあなんで俺には愛莉との記憶が無いんだろう」
「それは分からない。神のみぞ知るってやつじゃない?」
そう言って、愛莉は笑顔で袖を戻して、再び缶チューハイを手に取って飲み始めた。
俺も軽く笑って、缶チューハイを飲んだ。
やがて、愛莉は俺の目を見ながら笑顔でこう言った。
「ねぇ優雅、この地球には孤独な人がどのくらい居ると思う?」
「そうだなあ。究極的に突き詰めて考えると、この世の全人類が孤独なんじゃない? だって人間が当たり前のように友達や恋人を作るのは、みんな根っこが精神的に孤独だからだろう。まぁ、孤独の度合いは人によってガチで全く違うけどな……。仲間が欲しくてもどうしても作れない人だって沢山いるだろうし」
「そっか。まぁ、寂しさを人生の中で感じたことの無い人なんて1人も居ないだろうね」
「ちなみに今の俺は孤独じゃない。何故ならここに愛莉が居るからだ」
「なら良かった。今は私も孤独じゃないよ」
「……愛莉がいなくなったら、俺はまた孤独を感じると思う」
「じゃあ、何度でもここに遊びに来るよ。約束!」
「ありがとう」
その後、俺たちは2人でずっと酒を飲みながら談笑していた。
◆
愛莉が俺の部屋に遊びに来てから3時間ほどが過ぎた。現在の時刻は夜の11時半だ。
俺も愛莉も缶チューハイを6本くらい飲んだ。
俺は酒に強い体質なので、ほとんど酔っていない。しかし愛莉はベロベロに酩酊していた。会話をしていても、愛莉はろれつがあまり回っておらず、顔も結構赤くなっていた。
愛莉はやがて、
「私、眠くなってきちゃった……。もう限界。優雅のベッドで寝ても良い?」
と超スローな口調で訊ねてきた。
「ああ、良いよ」
と俺が言った1秒後に愛莉はベッドに横になり自分の体に毛布を掛けて、30秒後には既に寝息を立てていた。
愛莉は眠いのを我慢して、3時間も俺と喋ってくれたのだ。
俺は寝ている愛莉に、
「ありがとう」
と小さく言った。
愛莉が寝たことだし、そろそろ俺も寝る支度をしよう。
俺は元々【風呂キャンセル界隈】なので、歯磨きと排尿だけ済ませて、睡眠薬を飲み、部屋の電気を消してから床のカーペットに横になり、目を閉じた。
しかし普段使っているベッドではなく床で寝るのは困難で、1時間・2時間が経過しても俺は眠ることが出来なかった。加えて俺は不眠症の気質もある。
部屋には愛莉の寝息とエアコンの音だけが流れている。
3時間が経っても眠ることが出来なかった俺は、もう寝ることを諦めて、暗闇の中でノートパソコンを開いて、趣味の小説執筆を始めた。
愛莉はアルコールの影響で気絶するように熟眠しているようで、パソコンの光やタイピング音では目を覚まさなかった。それでも時々俺は愛莉の方をちらちら見た。
◆
俺が椅子に座って小説を書いていると、徐々に朝が近づいてきて、部屋も徐々に明るくなってきた。
結局俺は朝まで一睡もしなかった。
愛莉が目を覚ましたのは、ちょうど朝の7時くらいの事だった。
「……ん? あれ? 私いつの間に寝たの?」
と愛莉が俺に訊ねてきた。どうやら眠る直前の記憶は残っていないらしい。
「愛莉は酔っ払って、気絶するようにベッドで眠ったんだよ」
「え、じゃあ優雅は床で寝たってこと?」
「うん。でも6時間くらい寝られたから大丈夫」
「ごめんね。優雅のベッド使っちゃって」
「いいんだよ。気にすんな」
「ありがとう。なんかベッド借りたお礼がしたい」
「お礼? いらないよ、別に」
「いや、お礼しないと私の気が済まない。だから優雅にプレゼントあげるね」
「プレゼント?」
「うん。でも私、優雅に渡せそうな物あるかなぁ」
そう言いながら愛莉は自分のバッグの中身を漁り始めた。
それから数十秒後、愛莉は口紅のような形状の物を取り出した。
「このディオールのリップあげる。これで私と間接キスできるね。使いかけで女性用のリップだけど、別にいいよね」
「え、あ、うん」
愛莉が近づいてきてリップを俺に押し付けるように渡してきたので、俺はそれを手に取って、キャップを取ってみた。すると、ピンク色のリップが見えた。俺はキャップを閉めて、リップをノートパソコンのキーボードの上に置いた。
「そういえば優雅、唇が荒れててカサカサだね。今リップ使ってみたら?」
「……なんか恥ずかしいから、やめとく」
「あはは。別に恥ずかしがることないのに」
愛莉が笑った。
その直後、ベッドの枕元に置いてあった愛莉のスマホが目覚ましのアラーム音を発した。愛莉はすぐにそれを止めて、少し残念そうな顔で俺にこう言った。
「ごめん。今日も仕事があるから、今から電車で帰らなきゃ」
「そっか。仕事なら仕方ないね。愛莉、来てくれて本当にありがとう。楽しかったよ。あと仕事、あんまり無理すんなよ」
「こちらこそありがとう。私も優雅と宅飲みできて楽しかったよ。まだ昨日のアルコールが抜けてないから、今日の仕事は適当にやるよ」
「うん」
「じゃあ、またね。優雅」
「またな。愛莉」
「じゃあね」
「じゃあね」
そんなやり取りを交わして、愛莉は「バイバイ」と言って、手を振って俺のアパートから去った。俺も「バイバイ」と言って、手を振った。
その直後、俺を急激な睡魔が襲い、俺はさっきまで愛莉が寝ていたベッドに横になり、毛布を掛けて目を閉じた。
◆
朝まで小説を書いていた俺は、昼間にベッドで目を覚ました。
スマホで時刻を確認すると、13時23分だった。
不思議な事に、何故か枕がいつもより良い匂いがした。
だるい気分を抱えたまま起き上がった俺は、最初に排尿をして、その後に歯磨きをした。寝る前と起きた直後は必ず歯を磨くのが俺のルーティーンだ。
その後、俺は自分の部屋の様子を見て驚いた。
俺が飲んだ記憶の無い缶チューハイの空き缶が何個も床に転がっていたからだ。
数えてみたら、総計で12個もの空き缶があった。
こんな事は有り得ない。
昨日は確か、6本くらいしか飲んでいない。おそらく冷蔵庫に備蓄している缶チューハイを飲んだんだと思うが、さすがに1日で12本も飲むことは有り得ない。
まぁ、おそらくこれらは俺が数日前に飲んだ空き缶だろう。捨てるのを忘れていたようだ。
俺はその後、開きっぱなしのノートパソコンの前の椅子に座った。
直後、俺は、
「ん?」
という声が自然と漏れた。
何故なら、一切見覚えの無い口紅のような物がキーボードの上に置かれていたからだ。
キャップを開けてみると、中身はピンクの女性用のリップだった。
しかも、使いかけのリップだ。
「え、なにこれ……」
俺には戸惑いしか無かった。
明らかに俺の所有物ではないし、ましてや俺は今までこのアパートの部屋に女性を入れた事が1度も無い。ちなみに俺には姉と妹がいるが、姉も妹もそれぞれ2度くらいしか俺のアパートには来たことが無い。もちろん昨日の俺は盗みなんて働いていない……。
本当に全く身に覚えの無いリップだった。
俺はピンクのリップの先端を見ながら、何気なく自分の唇を触ってみた。
すると、俺の唇はとても荒れていてカサカサしていた。
「……」
俺はリップ片手にしばらく思案した。
このリップが何なのかは一切不明だ。
しかし、このリップはおばさんが使うようなデザインではない。
おそらく10代、20代くらいの比較的若めの女性が使用するデザインに見える。
俺は実は29年という長い人生の中で1回しか女性とキスをした経験が無い。
そしてこのリップは使いかけである。
これが何を意味するか? それは、このリップを俺が使えば、このリップの所有者と間接キスをした事になるのだ。
ちょうど俺は唇が乾燥して荒れているし、ずっと孤独で寂しくて愛に飢えてるし、この際知らない人でもいいので、このリップを使って間接キスしてみよう。
「……」
俺は自分の唇に、そのリップを塗った。
その瞬間、俺は自分が夢を見たことを何故か思い出した。
知らない女性と2人で俺の部屋で楽しく宅飲みする夢だった。
たしか夢で逢った女性の名前は……愛莉。
あんな楽しいことが現実世界でも起きればいいのになぁ、と思いながら、俺はそのリップのキャップをゆっくり閉めた。
窓からは明るい光が差し込んで、この孤独な部屋を照らしていた。
──また来るよな、愛莉。次は夢じゃなくてもいい。
おわり




