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赤葡萄酒を好まない

作者: 安田ドア

「あおぞら公園」

とても小さなその公園の入り口にはそう書かれた木の立て札がある。いや、正確にはそう書かれているであろう立て札だ。

板に下地として白いペンキを塗り、そこに黒のペンキで書かれたのであろうそれは、どうにも剥げ散らかしていて、「あ」は「め」に見えるし、「ぞ」の濁点はその形跡すらなく、「ら」は「う」に近かった。「めおそう公園」とは、おかしな名前の公園だなと、最初は思ったものだった。


不思議と「公園」の文字だけは、誰かがペンか何かでなぞったような跡があり、しっかりと判読できた。


しかし「あおぞら公園」なんてのは完全に名ばかりで、南西側は大きな工場の影にすっぽりと覆われ、東にもなんだか名前も知らないような、枝葉が横に広く育った樹木が3本植えられていて、鬱蒼を形成していた。おまけに工場からは灰白い煙が間断なく吐き出されていて、まるで陽光の方からここに差し込むのを避けているような有様だった。

もしかしたら“あおぞら”を剥離させたのは、誰かが敢えてやったのかもしれない、とも最近思うようになった。なるほどそうだとしたら、少し洒落たことでもあるな、と感心さえする。


そんなことはさておき、斯様な公園だから、いつ来てもだれもいない。しかし私がここを頻繁に訪れるのは、だからこそであった。

すぐそばに工場があるにも関わらず随分静かなのもポイントだ。私は、自分で言うのも何だが、明るくない戸外で静かに過ごすのが好きな変わり者なのだ。それを叶えられるのはこの辺りではここくらいだった。いくらか煙たいのと若干臭いのなんて、この際どうでも良かった。


その日も私は「あおぞら公園」に来た。その日は珍しく先客がいた。

黒っぽいガウンのようなものを纏った老人だった。大きめの手提げ鞄をひとつ足元に置き、私の定位置となっているベンチから10m程離れた、別のベンチに腰掛けていた。

騒がしくなければ構わなかった。私はいつもの場所に座り、燻んだ空を一瞥して本を取り出した。


若きスペイン人画家・サンダリオが、絵画旅行中に出会った東洋人と恋に落ちたがそれに破れ、すべてを捨てて漁師として大海原に挑む、という、壮大だがとてもつまらない内容の本で、十日ほど前に古本屋で「目を閉じたまま5歩進んで薬指で選んだ本を買う」という自らに課したルールに当たってしまったから仕方がなく200円で購入したものだった。


栞を取り、それを扉ページに一旦避難させてから、思い出したかのように栞があったページに左の中指を差し込む。さっきコンビニで調達したホットコーヒーを一口含み、自然と漏れ出る吐息の音だけを聞きながら、目線を本へと落とした。


大西洋のど真ん中での大ダコとの格闘を経て、そいつが死ぬ間際に吐き出した淡い墨に東洋を感じて涙するサンダリオ、という笑ってしまう場面を読書をしていると、視界の端で件の老人が動くのが見えた。


鞄から何か大きめのものを取り出し、立ち上がっていた。思わずチラリとそちらを見ると、老人の手には葡萄酒の瓶が握られていた。

なるほど、昼間から酒を飲みたいご老人か、と思った。それもまた、ここなら許されることであろう。

すでにコルクが抜かれた後の様子のその瓶の口を、老人は上から覗き込んでいた。

おいおい、ラッパ飲みかい?そう思った刹那、老人は、瓶を左手に持ち直し、まっすぐ前に突き出した自らの右腕に赤葡萄酒をボトボトとこぼし始めた。


意表をつく行動に、私は思わず「お」と小さく声を出し、背筋を伸ばした。その僅かな拍子に、栞を挟み直す間もなく、ページが随分最初の方まで閉じられてしまった。

老人は葡萄酒に濡れる自らの右腕をじっと見ていたが、私の様子に気づいたのか、葡萄酒を掛けるのをやめ、私の方に視線を移した。


私を見るその目は、攻撃的でもなく、かと言って優しくもなく、アリストテレスのそれだった。いや、全くアリストテレスの視線なんて本当はどんなのかは知らないが、確かにそれくらい、崇高な哲学者然とした、静かでほの甘い圧倒があった。

その圧倒に誘われてか、口を開いたのは私の方だった。


 「なぜ、そのようなことを。」


 「そのような?」


風貌の印象より若干高い声色で、老人は私に答えた。だが筋が通ったような、不思議な逞しさのある声だった。


 「その・・・葡萄酒をなぜ腕に。」


本を傍らに置き、手のひらで老人の右腕を指し示しながら私は尋ねた。


 「ああ。これのことですか。失礼いたしました。」


そういって老人は少し微笑み、自身の右腕に視線を戻した。


 「ご理解はいただけないかもしれませんが、お知りになりたいですか?」


 「…ええ、まあ。」


知りたがっている自分に驚きながら、私はそう答えた。


 「これはですね。」


少し、真剣な表情になり、老人は続けた。


 「わたしは今日、深紫色のベルベットのコートを着ているから、赤葡萄酒をここに溢したとしても、大失敗には見えないからですよ。」


しばし、私は考えた。老人が何を言っているのか、理解するのに少しの時間がかかった。その言葉を咀嚼し、飲み込むのを、老人はじっと待っていてくれた。


 「ああ。」


数秒ほど間があっただろうか。私は感嘆の声をあげた。老人が着ていたのは黒いガウンでなく、深紫色のベルベットのコートだった。

なるほど、そこに赤葡萄酒をこぼしても、ほとんど分からないのだ。そのコートを赤葡萄酒で濡らしても、大失敗には決して見えやしない。濡れているのかどうかさえ、おぼつかないであろう。他のものを着用していたら、そうはいくまい。深紫色のベルベットのコートだからこそできる特別を、老人はこの明るくない静かな戸外で楽しんでいたのだ。


 「なるほど。そいつは意表を突かれました。意味はよく分かりませんが、確かに、おっしゃっていることは全く間違ってはいません。いや、なるほど。」


お世辞でなく、私はそう言った。拍手もしてあげたいくらいだった。他のだれが、そんな特別を思いつくだろうか。私はそのひらめきとの邂逅に感謝しさえした。

老人は照れるように地面を一瞥し、再び葡萄酒の瓶を胸の高さに掲げた。それを見て私も、再び本を手にして読んでいたはずのページを探し始めた。

視界の端で、老人は今度は左腕を葡萄酒に濡らしているのがわかった。先ほどよりも念入りに、少量ずつを肩のあたりにまで垂らしているのが分かった。


つまらない公園での意図しない奇才との触れ合いに自然とこぼれる満足をコーヒーと共に喉に流しながら、私はつづきのページを探し当てた。


涙に滲む甲板に、蛸墨を用いた水墨画のようにして大ダコを描き、殺したそれを弔うサンダリオ。そのタコの描写の凄まじさに感嘆し、「お前は画家を続けるべきだ」と説得する漁師仲間のドミンゴ。

果たしてこれは感動するポイントなのか、と唸る無音の公園で、次に口を開いたのは老人だった。


 「嘘でした。」


私は顔をあげた。切実であろうドミンゴの表情と、悲壮であろうサンダリオのそれとが合わさったような顔をして、老人はしょぼくれていた。飲み込めない私が無言のままでいると、老人は同じ言葉を発した。


 「嘘をつきました。」


私とは目を合わさぬまま、老人は続けた。


 「大失敗には見えないからではなく、本当は、赤葡萄酒の香りを纏いたかったからでした。」


手には、ほとんど空であろう瓶が握られていた。老人の裾からポタリと、紫色が乾いた地面に落ちた。

私は再び思考を巡らせた。老人の言っていることをまたしても良く咀嚼せねばならなかった。そしてそいつを飲み込むと、私はこれもまた思いがけず、憤怒の情が湧き上がってきた。


 「ええ!」


大仰な芝居のように私は手にしていた本を地面に落とした。ドミンゴに声をかけられたサンダリオがどう返したかなんて、最早どうでも良かった。「香りを纏いたかったから」だなんて、陳腐極まりないではないか。香りのためだなんて。


失望した私は、その失望のあまり、涙が出そうにさえなった。この世の終わりのように申し訳なさそうな顔をした老人は空の瓶を鞄にしまい、居心地悪そうにして公園を後にした。一度だけ私を振り返ったが、失望に呆けた私を見、老人は思いもよらぬ健脚で、タッタとその姿を小さくしていった。


本を拾い上げた私は、ハラリと開いたあとがきで、その本が古本屋の店主の自費出版物と知り、そいつをゴミ箱に投げ捨てそうになった。ため息をついて見上げた「あおぞら公園」の空は、どうしたことか、底抜けの綺麗な青だった。


その日以来、私は赤葡萄酒を好まない。

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