第8話:秩序の代償
B-2ブロックの仮設灯が点灯するのは、毎日17時を過ぎてからだ。
昼間は泥に塗れていた配線も、夕刻にはきっちりと整理され、
廃材の山はきちんと分別されて仮設ゲート脇に積まれていた。
スターレインがいる範囲だけが、静かに正常だった。
残業。
誰もが嫌がるその言葉も、彼女の口からは発せられない。
「……終わらないので、続けます」
ただそれだけを言い、彼女は淡々と手を動かし続けた。
照明工の男がそっと呟く。
「……この人、一日中働いてんのに、文句ひとつ言わねぇ」
「いや、文句っていうか、感情っていうか……そもそも疲れてんのか?」
——疲れてはいる。
だが、疲労を理由に動きを止めることは、意味がない。
スターレインはそう考えていた。
一週間が経過した。
B-2ブロックは——
予定通りとは言えないまでも、寸分の狂いもなく“工程の形”を守っていた。
残業しているのは事実だ。だが、それによって納期が守られているのもまた事実だった。
現場監督たちは、誰一人として口に出せなかった。
「彼女がいなかったら、この区画、終わってませんでしたよね?」
「いや、でも……言っちゃ悪いけど、働かせすぎじゃないか?」
「……文句言ってくれたら、何か手は打てるけど……あの人、一言も言わないからな……」
誰も彼女を止められず、誰も彼女に頼めない。
それが、“神を一人親方にした代償”だった。
スターレインはその夜も、無言で手元の配線図を修正していた。
灯りの消えた現場の奥で、たった一人、図面を見つめる後ろ姿。
誰もいない場所でこそ、彼女はもっとも速く動ける。
その翌日。
配管作業中のスターレインの元に、事故の一報が届く。
「……冒険者のやつらが善意でやらかして……」
「その責任を取って監督共々、クビだってさ」
「なあ、どう思うよ?」
スターレインは、手を止めなかった。
ただ、静かに答える。
「……私は監督の際、冒険者達に余計な自我を持たせないよう徹底していました。」
言いながら、絶縁用のゴムパッキンを嵌めてゆく。
「“無能の善意”は、“敵の凶意”より厄介ですから」
かつて、冒険者たちは彼女を冷たいと思っていた。
——なぜ自主性を奪うのか。
——なぜ指示通りしか動かせないのか。
——なぜ、何も信頼してくれないのか。
それは、スターレインが“彼らを信じていなかったから”ではない。
“事故を防ぐための最も合理的な方法”だったから。
「善意の作業は、図面に書かれていません。“やる気”と“結果”は、現場では無関係です」
現場で語られる、スターレインの言葉。
それは信頼ではなく——
恐ろしいまでの現実主義として、静かに浸透しはじめていた。
その日、彼女は作業後に誰とも話さず、一人で灯りを消した。
仮設詰所のロッカーに戻り、缶ビールを一本だけ取り出す。
「……また、誰かがいなくなった」
呟くでもなく、思い出すでもなく、
ただ缶のプルタブを静かに引いた。
それは、“秩序の代償”に捧げられた、ただのアルミの音だった。
事故が起ころうが現場は止まらない。
午後五時十五分。
工事用ゲートが閉じられ、作業終了の放送が流れる。
だが、スターレインはまだ詰所に戻らない。
工具袋を腰に下げたまま、いつものように喫煙所へ向かう。
仮設囲いの裏、コンパネと鉄骨で簡易に仕切られたその空間は、もはや社交場と化していた。
「お、来た来た。魔導職長」
「今日はひどかったなー。あの監督、図面すら見てなかったらしいぜ」
「またか……地図も読めないのに現場仕切るとか、もはや才能だな」
火の点いた煙草が、会話の合図だった。
誰かが笑い、誰かが毒を吐き、そして——スターレインも、毒を吐く。
「……あの監督、今日で“口を動かした回数”と“図面を見た回数”が完全に反比例していました」
「それな!!マジそれな!!!」
「相変わらず語彙が鋭利で助かるわ」
「というか、あの人の説明って“言葉の形した排水管”みたいですよね。中身詰まってませんし」
「ッハハハハ!」
「スターレインさん、今日もえぐいなぁ……」
職長たちに囲まれ、笑いながらも淡々と煙をくゆらす彼女の姿は、
もはや“変わり者の魔導士”ではなかった。
“現場で一番信頼される”職長のひとりだった。
「なあ、スターレインさんよ」
「はい」
「……お前、よく人と話すようになったよな」
一瞬、間が空く。
スターレインはキセルの先を軽く指で持ち上げたあと、静かに答える。
「……同じ毒を吐ける人たちなら、会話しても大丈夫ですから」
「それ、褒めてんの? 貶してんの?」
「事実を述べただけです」
静かな煙の中に、親しみのある悪意が漂う。
言葉の端々には皮肉が混じり、愚痴が繰り返されるたびに、
彼女と周囲の距離は——絶妙な“現場距離”で縮まっていった。