エピローグ:教育の価値
窓を開けたら夏の匂いが入る。
放課後の職員室は、すでに静けさを取り戻していた。
カーテンの隙間から覗く夕焼けが、机の上の書類を朱に染める。
スターレインは端の席に座り、淡い紫の光を瞳に映しながら、ペンを止めた。
「ねえ、スターレイン先生」
声をかけたのは、隣の席のエリスだった。
彼女は柔らかい笑みを浮かべながら、書類を伏せ、身を乗り出す。
「あなたって時々、教育なんて“感情じゃない”って顔してるじゃない?
でも本当は、どう思ってるの? 教育って、何のためにあると思う?」
スターレインはしばし無言のまま視線を戻し、それからゆっくりと口を開いた。
「教育とは、まず第一に……生きるための基礎知識です。
知識がなければ、世界はただの脅威に満ちた場所です。
たとえば“火に触れるな”という言葉が意味を持つのは、それが火傷につながることを知っているから。
“契約書を読むこと”が大切なのは、それが搾取の回避につながるから。
そうした知識は、誰かに守ってもらえないとき、唯一の防具になる。
教育は、その“守る手段”を、まだ傷ついていない子どもたちに手渡す行為だと思っています」
エリスは小さくうなずき、真剣な表情に変わった。
「……それ、すごくよくわかる。
子どもって、いつも誰かが守れるわけじゃないものね」
「第二に。教育は、言葉を持たせることです。
どんなに荒唐無稽なことでも、歴史や理論、語彙を駆使すれば、“語る”ことができます。
それが詭弁であれ、真理であれ。
教育によって、子どもは“語れる者”になる。
沈黙するしかなかった者が、自分の経験や願いを世界に向かって言語化できるようになる」
「……“語れる”って、大きいわね」
エリスの声には、少しの感嘆と敬意が混じっていた。
「わたし、つい“聞いてあげよう”って思いがちだけど……
“語る力”そのものを渡すことが、本当の支援なのかもしれないね」
スターレインはわずかに頷いた。
「そして第三に。教育とは、履歴をつくることです。
知識や技能は、記録され、証明され、価値となります。
履歴は、社会における“信用”の素材になります。
それは、ただの紙切れではありません。
“あなたを採用してもいい理由”であり、“あなたに何かを委ねてもいい根拠”です。
生徒たちが将来、自分の力で選べるようになるために、
その証明材料を残すことも、教育の責務だと考えています」
エリスは言葉を失ったまま、しばらくの間、スターレインの横顔を見つめていた。
紫の瞳に、ただ淡々と語るその姿に、どこか深い祈りのようなものを感じ取ったのかもしれない。
「……スターレイン先生」
やがて、エリスは静かに言った。
「あなたの言葉って、冷たく見えて、ちゃんと誰かを支える形になってる。
愛とか情熱じゃないけど……もっと“仕組みとしての優しさ”っていうか、
きっとその方が、遠くまで届くのかもしれないね」
「わたしは、誰かを愛するために教師をしているわけではありません」
スターレインはそう応じた。だが、その口調は、どこか穏やかだった。
「ただ、“守れるはずの仕組み”を忘れないでいたい。それだけです」
エリスは小さく微笑んだ。
「……そういうところ、やっぱり好きよ」
冗談めかした言い方だったが、その声には確かな尊敬があった。
スターレインは静かに目を伏せ、それから隣のエリスに目を向けた。
銀灰の髪が頬にかかり、瞳の奥には淡い好奇の光が宿っている。
「……エリス先生」
柔らかく、しかし明確な声だった。
「教育とは何だと思いますか? あなたにとって」
エリスは驚いたようにまばたきし、それから目を細めて笑った。
だが、その笑みは戯れではない。むしろ、どこか懐かしい何かを振り返るような色を帯びていた。
「うん、いい質問ね」
少しだけ間をおいて、彼女はまっすぐにスターレインを見返す。
その視線は、包み込むような温かさと、教師としての確信に満ちていた。
「わたしね、思うの。教育者って、結局、自分の思想を子どもにぶつけたい人種なんだと思うのよ」
スターレインの眉がわずかに動いた。だが、口を挟むことはなかった。
「もちろん、強制はしない。……でも、“信じてること”は隠せないのよ。
わたしは、子どもたちが困っていたら、そばにいたい。泣いてたら抱きしめたい。
その上で、“こういうふうに考えたら、もっと楽になるよ”って、自分の言葉で伝えたい」
彼女は小さく笑い、背筋を少しだけ伸ばした。
「そして、その言葉で、誰かが変わってくれたとき。前を向いてくれたとき。
ああ、わたしにも存在価値があるんだって思えるの。
それが、わたしにとっての“教育の意味”なのかもしれないね」
その言葉に、スターレインはしばらく沈黙した。
紫水晶のような瞳が、ゆっくりとエリスを見つめ直す。
「……価値、ですか」
静かな声だった。敵意も、皮肉もない。ただ、思索のための繰り返し。
「ええ」
エリスは真っ直ぐにうなずいた。
「わたし自身、あんまり器用じゃないからね。生徒全員の心を見てあげるなんて、たぶんできてない。
でも、“この子のために今できること”っていう想いだけは、嘘じゃないと思ってる。
——それがもし、ひとつでも響いたなら、その子の未来に少しでも光が差したなら。
その時、わたしは“教育者でいてよかった”って思えるのよ」
スターレインは、ふと視線を窓の外に向けた。
暮れゆく空。遠くに響く、生徒たちの帰り道の笑い声。
「……あなたのような教育観も、制度には必要なのかもしれませんね」
そう言って、彼女はほのかに微笑んだ。
その微笑は、理屈を超えて何かを受け入れようとする姿勢の現れだった。
エリスはふと、口元に手を当てて笑う。
「何よその言い方。“必要悪”みたいじゃない」
「いえ、“異なる支柱”です。わたしのような存在だけでは、教育は支えきれない」
スターレインは、冗談交じりにそう答えた。
夜が降りていた。
校舎の明かりはほとんど落ち、人気のない屋上に、二人の影だけが静かに佇んでいた。
風はやや冷たく、しかし湿り気を帯びて穏やかだった。
街の灯が遠く瞬き、空にはかすかに星の気配が滲んでいる。
スターレインは手すりにもたれ、遠くを見つめていた。
その横でエリスは、しばらく口を開かずにいたが、やがて意を決したように小さな声を紡ぎ出した。
「教育の価値って、ほんとうにいろいろあると思うの。
知識や論理、利益や信用、人を導く言葉や、仕組みとしての優しさ。
——でもね、スターレイン先生。わたしにとって一番強く、それを実感した瞬間って、実は……今なのよ」
スターレインが、ゆるやかに首を傾ける。
「わたしね。いろんなことがあったの。うまくいかない日も、見失った日も。
それでも学んで、試験を受けて、教室に立って……それで、今、あなたがわたしの隣にいる。
それが、わたしにとっての“教育の成果”なの。
——あなたが、ここにいるっていうこと。それだけで、わたし、勉強してよかったって思えるのよ」
静寂が落ちた。
風が、エリスの金の髪を揺らす。彼女の目は笑っていたが、そこには本気の色が宿っていた。
スターレインはその言葉を、真正面から受け止めていた。
紫水晶のような瞳が、一瞬だけ揺れる。
普段は微動だにしないその視線が、はっきりとエリスに向けられる。
そして——
「……やはり」
スターレインはふっと笑った。だがそれは、どこか慈しむような、柔らかな笑みだった。
「あなたの思想は、わたしとは違いますね」
エリスは肩をすくめて、照れたように笑った。
「うん、知ってる。知ってるけど、言ってみたかったのよ。
——わたしは、あなたみたいな人が、好きなの。尊敬もしてるし、すこし憧れてる」
「……その感情を、評価や制度に還元できるといいのですが」
スターレインの口調には淡い冗談が含まれていた。
「もう、そういうとこ」
エリスが苦笑しながら、少しだけスターレインの袖をつまむ。
二人の間を風が通り過ぎていった。言葉よりも静かな、理解という名の風が。
やがて、スターレインがそっと言う。
「……ここにいるのは、わたしが制度に従い、研鑽を重ね、偶然にも職に就き、
いま定時を過ぎてなお、業務を終えていないからです。
でも——それでも、あなたがそう思ってくれるのなら。
その“実感”の中に、教育の一つの意味があるのかもしれません」
エリスは何も言わずに、うなずいた。
誰かの思想と誰かの思想が、完全に交わることはない。
けれど、それぞれの言葉が、互いの呼吸の中で“理解”という温度を持ちはじめることはある。
そして、それで十分だ。
教育という営みが、感情であれ論理であれ、誰かの隣に“今”を残せるのだとしたら。
星が、夜空の一点に静かに現れた。
偉人の涙のように——いや、教師たちの祈りのように。
その夜、教育とは何かという問いは答えを持たなかった。
けれど、一つの価値が確かにそこにあった。
ふたりの教師が、思想を違えながらも同じ場所に立っていたという、ただそれだけの事実だった。