第21話:あいさつの重要性
昼休みを知らせるチャイムが、塔の鐘のように柔らかく響いていた。
窓辺では、白と金の装いに身を包んだ一人の教員が、湯気の立つティーカップを手にしている。エリス――二年生の担任であり、闇魔法の指導者。けれどその笑みは、闇とはほど遠い温かさを持っていた。
そこへ、どこか落ち着かない様子の実習生がやって来た。先ほどスターレインから論理的な返答を受けたばかりの彼は、まだ何か整理のつかない思いを胸に抱えているようだった。
「エリス先生……あの、ひとつお伺いしてもいいですか?」
彼女はそっとカップをソーサーに戻し、柔らかな眼差しを向けた。
「うん、どうぞ。難しい話でも、ちゃんと聞くよ?」
実習生は少し逡巡したのち、教室でも用いた問いをそのまま口にした。
「……あいさつって、ほんとうに大切なのでしょうか?」
その言い回しに、エリスは小さく目を細め、くすりと微笑んだ。やや堅苦しいその問い方が、どこか愛らしく映ったのかもしれない。
「ふふ。律儀だね。……そうだなあ。私はね、あいさつって、信頼関係の基本だと思ってるよ」
言葉は、驚くほど自然だった。まるでそれが空気や水のように当たり前のものとして、彼女の中に根付いていることがわかる。
「だって、もしこっちがちゃんとあいさつしたのに、相手が返してくれなかったら……それだけで、ちょっと距離を置きたくならない? “この人とはあんまり関わりたくないな”って、思っちゃわない?」
実習生は、僅かにうなずいた。たしかにそうだ、と心のどこかで頷ける言葉だった。
「だからね、将来あなたが教員になった時に、生徒と仲良くなりたいとか、信頼されたいって思うなら……やっぱり、あいさつは積極的にするべきだと思う。言葉にしなくても、“私はあなたに関心がありますよ”って、心で伝える手段なんだから」
エリスの言葉は、穏やかで、けれど芯があった。柔らかく包み込むようでいて、その奥には信念が宿っている。
「それにね、不思議なんだけど――あいさつをすると、自分の心も明るくなるんだよ。気持ちが前を向ける。人との距離も、自然と縮まっていくの。そういう“魔法”、わたしはけっこう信じてる」
再び、微笑みが浮かぶ。その笑みは、光に似ていた。あたたかく、柔らかく、誰かを照らすような優しさ。
実習生は、しばし沈黙していた。けれどその表情には、先ほどまでの迷いが少しずつ溶けていく気配があった。硬かった肩が、ふっと力を抜かれるように緩んでいた。
「……ありがとうございます。なんだか、少し救われた気がします」
「うん。そう言ってもらえると、私もうれしいな」
エリスは言葉を重ねなかった。ただ静かにうなずきながら、紅茶の香りにふたたび目を細めた。
実習生の表情に、ようやく曇りが晴れた気配があった。言葉ではなく、まなざしと肩の緩みが、それを雄弁に物語っていた。
エリスは、少しだけ間を置いてから、ふと視線を逸らすようにして言葉を継いだ。
「でもね……」
その声には、先ほどまでの温もりとは異なる、どこか鋭さがあった。柔らかな笑みを湛えたまま、瞳の奥にだけ、淡い影が差す。
「わたしの今の説明は――そうだね、生徒によっては“俺には関係ねーし”って、そのまま逃げられる可能性もあるんだよね」
実習生は思わず目を丸くした。穏やかな口調のまま、突如として現れた“現実”という言葉の重みが、肩口を冷やすように伝っていく。
エリスは小さく頷き、今度はゆっくりとカップを持ち上げる。その仕草は相変わらず優雅だったが、その目元には一瞬、何か愉しげな光が灯っていた。
「だから……スターレイン先生の言っていたことも、ちゃんと頭に入れておいた方がいいよ。あの人の理屈って、実はすごく実用的だから」
そこで一度、言葉を切る。そして、ゆっくりと実習生の目を見て、まるでいたずらを仕掛ける前の少女のように口元を歪めた。
「……あなた、きっと忘れそうだし。念のため、忠告しておくね」
微笑みはそのままに。けれど、その笑みは先ほどのような陽だまりの笑顔ではなかった。
静かに、確かに。そこには一抹の“黒”が差していた。優しさの中に織り込まれた、確かな計算と、現実への目線。
実習生は返す言葉を見つけられず、まるで見透かされたような気恥ずかしさで俯いた。
紅茶の香りが、冷えかけた空気にふたたび立ち昇る。
エリスはその香りを確かめるようにまぶたを伏せ、もうそれ以上、何も言わなかった。