第19話:性悪説
荀子(紀元前3世紀)は、戦国時代末期に生きた儒家の思想家である。彼は同じ儒教の系譜に連なる孔子や孟子とは異なり、人間の本性を「悪」と定義した性悪説の提唱者として知られる。
荀子によれば、人間の本性とは「利己」「欲望」「怠惰」「快楽追求」に満ちた未加工の素材であり、そのままでは社会秩序を破壊する災厄の源である。彼はこう記す。
「人の性は悪なり。其の善なる者は偽なり(作為によるものなり)」
これはすなわち、善なる行為や規範的態度は、生得的なものではなく、後天的な教育と制度によって“偽られた”ものであるという徹底した現実認識を示す。
しかし、荀子の思想は決して絶望や虚無ではない。むしろ彼は、「だからこそ教育が不可欠であり、礼と法によって人間を“訓化”しなければならない」と主張した。彼にとって人間とは、悪を抱えたまま制御されるべき存在であり、制御可能である限り希望は残されているのだ。
荀子は、社会を安定させる鍵として二つの柱を挙げた。それが「礼」と「法」である。
•礼とは、社会秩序を形作る儀礼・習慣・道徳規範の体系であり、人間の行動を一定の型に矯正する。
•法とは、罰則や制度として明文化され、逸脱者を抑制する力である。
彼はこれらを通じて、人間の悪しき本性を「抑えつけ」「矯正し」「共同体として成立可能な個人」へと変化させることを目指した。つまり、“善い人間”とは、生まれながらの特質ではなく、訓練と制度の成果物にすぎないというのが荀子の立場である。
彼は理想を語るのではなく、現実を“理想に耐え得る形”に作り変える道を提示した、極めて政治的・教育的な思想家であった。
スターレインは、この荀子の思想に対し強い共感と限定的な敬意を抱いている。
彼女もまた、人間の本質を悪と見なす立場を取り、ルールや制度なしには共同体が崩壊すると理解している。その意味で、荀子は彼女にとって“話が通じる数少ない古典的人物”である。
しかし、決定的な違いがある。それは、荀子が「人間は悪だが、訓育によって善に変えることができる」と信じていたのに対し、スターレインは「悪は矯正の可能性を持つが、善にはならない」と見なしている点である。
彼女にとって「善」とは理念ではなく、運用可能な振る舞いである。たとえ制度によって外形的に秩序を守ったとしても、それは“従ったふりをしている悪”にすぎず、本質的に善へと転じたわけではない。つまり、スターレインにとって教育とは、「悪を抑え込む道具」であって、「人を救う理想」ではない。
「彼らは従う。だが、それは信頼ではなく抑圧による結果でしかない。私はそれで十分だが、“変えた”とは思っていない」
この冷徹な認識が、荀子が持ち得なかった“現代の支配技術としての教育”という視点を、スターレインに与えている。
荀子の教育哲学は、悪を前提としながらも、人間に対する“再建可能性”への希望に貫かれていた。
だがスターレインは、その希望すら一種の幻想と見なし、教育を「社会破綻の予防措置」として捉える。
すなわち、荀子が語った「人を善にするための教育」は、
スターレインにとって「悪を許容可能な範囲で整えるための手段」にすぎない。
彼女が荀子を尊敬しつつも、心のどこかで「まだ人間に期待しているな」と微笑むのは、実際の現場においては何度も裏切られてきた現実を知っているからである。