第15話:部内戦
「部内戦は、しません」
夕陽がすでに校舎の向こうへ沈みきった時間帯。人工照明がまばらに灯る屋上手前の踊り場で、コリンズはそう言い切った。教員としての責任ではなく、運営者としての判断という口調だった。
スターレインは無言でその言葉を受け取り、手すり越しに夜風を感じながら、淡く問い返した。
「……理由を聞いても?」
コリンズは即答した。
「強さによる上下関係が明確になって、教員側の微調整があとからできなくなるからです」
その声音に迷いはなかった。むしろ、どこかに“失敗を知っている者”の確信があった。スターレインは目を細める。
「卓球部やソフトテニス部など、団体戦のある競技は特にそうです。個人の力量を可視化しすぎると、チーム内で“序列”が完成してしまうんですよ」
コリンズは腕を組み、少し視線を落として続けた。
「なんらかの理由で、上位の一人を外したとしましょう。たとえば素行不良でも、ケガでも。そうすると、次の順位の子が、当然かのような顔で“代わり”として割り込んできます。“実力順”という建前があるからです」
スターレインはそれにすぐ頷きはしなかった。ただ、わずかに視線を落とし、思考の層を深めるように口を閉ざす。コリンズはその様子を横目で見ながら、さらに続けた。
「我々は野球部の顧問で、一見縁がないように見えるかもしれません。でも──レギュラーとベンチの間で、同じことが起きます」
夜風が静かに吹き抜ける。どこか遠くで、まだ部活を終えていない運動部の掛け声が響いていた。
「“あいつより僕の方が打てる”とか、“この前のノック、俺の方が捕ってた”とか。そういう思考が生まれる構造を、わたしたちは敢えて作らないようにしています」
スターレインは、ようやく言葉を返した。
「……つまり、実力は指標にするが、序列にはしないと」
「はい。順位の明示は、組織の中で“誰が切られるか”を決めるのと同じです。決める権利を教員から取り上げることにもなりかねません」
それは、教育的配慮というよりも、統治の技術に近い発言だった。だが、コリンズの眼差しには支配欲や管理主義の色はなく、ただ“崩壊しない構造”を設計しようとする者の静かな覚悟が宿っていた。
スターレインはその横顔を一瞥し、低く、しかし確かに呟いた。
「合理的ですね……必要以上に騒がせないという意味でも」
どちらからともなく、小さな笑いがこぼれた。それは決して、明るい笑いではなかった。
だが、戦わずして秩序を維持するという彼女たちの現場知が、確かにそこにはあった。
スターレインは隣に立つコリンズの横顔に視線を向けると、少し間を置いて静かに問うた。
「……部内戦を行わないことによるクレームは、どうやって対応するんですか?」
問いは静かだったが、核心を突いていた。
「たとえば、“どうしてうちの子が選ばれないの!”──これが来るリスクは、ありますよね?」
コリンズは、それを予期していたかのように、表情一つ変えずに答えた。
「……ああ、それですか。私、スターレイン先生、それに外部顧問の三人で“相談して決めました”で押し通りますよ」
その言葉には、情ではなく構造への理解があった。説明責任を果たすよりも、責任主体を分散させ、構造の正当性を見せることのほうが遥かに効果的であることを、コリンズは知っていた。
「当然、苦情は出るでしょう。でも、それに対しては“共感ベース”で対応すれば大丈夫です」
彼女は言葉を選ぶように、けれども迷いなく続ける。
「“お母さん、お気持ちわかります”とだけ、ちゃんと伝える。不満を言わせてあげれば、それ以上燃え上がることはほとんどありません。ここで正面から否定すると、面倒なことになるんですよ」
スターレインはゆっくりと頷いた。冷たい計算ではない、処世の技術。そこに倫理的な重みを乗せようとしないのが、かえって信頼できると感じた。
コリンズは、言葉を締めるように言い足した。
「今回は三人で動ける体制です。誰か一人に負担がかからない。それを使わない理由はありません」
スターレインの視線が、わずかに宙を泳いだ。
彼女は形式的な肯定を口にすることはせず、確信を持って理解した時だけ、言葉を返す。
「……なるほど。理解しました」
コリンズが微笑んだのを感じながら、スターレインはさらに口を開く。
「ひとつ、先輩に聞きたいことがあります。……部内戦を行ったほうがいい場合、ありますか?」
その問いには、実務者としての誠意があった。ルールを否定するためではなく、例外を知っておくための確認。コリンズは少し顎に指を添えてから、すぐに答えた。
「ありますよ。顧問が一人のとき。それから……その競技に自信がないときですね」
スターレインの眉が、わずかに動いた。コリンズは続ける。
「未経験の競技で、指導に対する“負い目”があるとき。そういうときは、判断の責任を“部内戦”に委ねることで、自分の立場を守れます。選んだ理由を“数字”にしておけば、外部からも説明しやすくなりますから」
それはまさに、“弱い顧問”のための保険だった。自分で決める力がない時、または決めたことで責められる余裕がない時、人は数字と構造を頼る。
その現実を、コリンズは否定しなかった。
スターレインは、空を仰いだ。星は見えなかったが、風は冷たく澄んでいた。
「……では、私は今の体制を使います。自分の裁量で動けるうちは、数字には逃げません」
その言葉に、コリンズは声を出さずに微笑んだ。
目の前にいるのは、冷静で、徹底的に無駄を排した者。だが、同時に、組織に流されない個の責任を背負おうとする者でもあった。
「頼もしいですね、スターレイン先生」
風の中に、その言葉だけが残った。




