第5話:スタエリスイッチと羅針盤
案内されたのは、思っていたような賑やかな食べ放題の店ではなかった。
コリンズが向かったのは、落ち着いた照明に黒と金を基調とした内装の、いかにも「それなりの値段」を匂わせる高級焼き肉店だった。接客は丁寧で、席にはすでに冷えたおしぼりと銘柄付きの水が置かれている。制服のジャケットを脱ぎかけながら、スターレインは一瞬だけ心の中で計算を始めた。
(これは……割り勘になりそうですね)
教師という仕事は安定しているが、豪勢な食事が日常というわけではない。特に彼女のような倹約家にとっては、焼き肉にこの雰囲気は警戒の対象となる。それを察したかのように、コリンズは軽く笑った。
「高級焼き肉とチェーンの食べ放題って、法治と徳治みたいに極端ですよね」
意味が分からず一瞬まばたきをしたスターレインに、コリンズは卓上のメニューを手にしながら、続けた。
「高級店は、価格でルールが決まってるんです。“この値段を払うなら、この質が保証されます”って。まさに法治的ですよね。一方、食べ放題のチェーン店って、質にはばらつきがあるけど、楽しさとか空気感とか、そういうのを大事にしてる気がして。徳治っぽいなって」
スターレインは小さく目を伏せると、静かに水を一口含んだ。
コリンズの言葉は、まるで自分がよく使う“スタエリスイッチ”のようだった。場に応じて価値を切り替え、相手にとって納得しやすい枠組みで提示する。だが、どこかが違っていた。
「たとえば、普段はチェーンでいいんですよ。でも、誰かとの大事な時間とか、ちょっとだけ背伸びしたいデートのときとか、そういう場面では高級店に切り替える。“自分はこういう店にも来られますよ”って、さりげなく見せるために」
言いながら、コリンズは笑って箸を割った。その笑みはあくまで柔らかく、威圧感も、媚びもない。ただ、「この感覚が当たり前なんですよ」とでも言うように、自然だった。
「わたしはね、こういう両極端な店を提示して、そのときの状況で“どちらが適切か”を考えるんです。最初に方向を示しておいて、そこから少しずつ、現実的な重心を傾けていく。羅針盤みたいなものですね。スイッチというよりは、角度を調整していく考え方、というか」
スターレインはその言葉に、少しだけ瞳を細めた。
――羅針盤。なるほど、確かにそれは、コリンズらしい。
スターレインの「スイッチ」は、状況に応じて自己の態度を切り替える“演技”のようなものであり、時には自己欺瞞に近い感覚すら伴う。だがコリンズの「羅針盤」は、あくまで自分の価値観を基準に据えつつも、現実とのバランスを絶えず探り続けるスタイルだ。
「でも、スターレイン先生のスイッチも、悪いものではありませんよ」
ふと、コリンズがそう言って笑った。その声は軽やかだったが、どこか芯の通った温度を帯びていた。
「だって、“変われる”って、すごいことですから」
スターレインは、答えずに視線を皿の上へ落とした。煙の向こう、網の上でジュウと音を立てる薄切りの和牛。その焼ける音が、しばし二人の間を包み込む。
スターレインは、コリンズの語る「羅針盤」という思考に、理屈としての整合性は感じていた。
極端な二点を提示し、その中間にある現実的な最適解を探る――それは確かに、柔軟で知的な方法だ。だが同時に、彼女はその中庸の思考に潜む危うさを感じ取ってもいた。
中庸は、明確な規範を掲げない。白でも黒でもなく、常に「灰色の中の最善」を選ぶ。だが、その曖昧さは、ときに周囲からの不信感を招く。「はっきりしない」「結局、どちら側なのか分からない」といった声が、疑り深い者たちの中で増幅する。理性を装っているようで、実際は責任の回避なのではないか――そう見なされる危険すらある。
さらに、その羅針盤が示す方角は、あくまで“自己の価値観”に基づいている。だが、その価値観自体が激しく揺らいだとき、羅針盤は真北を見失う。進むべき方向を誤り、宙に浮いたまま、行動も判断も曖昧になる。そのとき、中庸はもはや「バランス感覚」ではなく、「優柔不断」という名の不安定さに転じる。
事実、今回のような“決闘”に近い行動――教師が生徒の前で直接、技術的な勝負に出るという行為――は、制度上極めてグレーであり、場合によっては校内規則に抵触し得る危険行為だった。それが成り立ったのは、コリンズの力量と状況判断、そして何より、彼女が「打てる」という圧倒的な確信を持っていたからだ。
――だが、もしこれが、経験の浅い誰かだったら?
たとえば、スターレイン自身が中庸を真似て、「共感」と「理性」の中間に立とうとした場合。そのバランスを支える価値観の軸が、そもそも確立されていない状態で、表面的な柔軟さを装えば、ヒューマンエラーの可能性は高まる。規律を守るという前提が曖昧になり、判断のブレが拡大していく。
そして何より、教育現場は“理屈”だけでは立ち行かない。
完全実力主義の世界なら、明快な序列と成果が支配する。だが、学校は違う。そこには成長途中の未完成な人間たちがいて、不条理が日常に満ちている。真面目な者が損をし、努力が裏目に出ることもある。共感だけでは無力であり、論理だけでは孤立する――その二重構造を、スターレインはようやく痛感し始めていた。
「教育」という場所は、理屈と情が拮抗する、不可解で曖昧な場なのだ。
その意味で、コリンズの中庸は高度な均衡術であり、誰にでも真似できるものではない。現実に即した判断と、感情の波に呑まれない冷静さ、そして時には制度の限界を理解し、それを“超えてでも守るべき線”を見極める胆力が求められる。
スターレインは、その全てをまだ持ち合わせてはいない。
だからこそ、コリンズの在り方がまぶしく映る。彼女の静かな決断力と、揺らぎの中にある芯の強さに、どこか羨望に近い感情すら湧いていた。
ふと、コリンズが箸を伸ばした。
焼き網の上で香ばしく焼き上がったばかりのカルビを、ひときれ、丁寧に皿へ取り上げる。そして、何の前触れもなく、それをスターレインの前に差し出した。
「あーん、ですよ」
その言葉とともに差し出された箸先には、つやつやと光る肉の断面。タレの香りが湯気とともに立ち上る。
スターレインは、ほんの一瞬だけ戸惑いを見せた。だが、逃げる理由もなかった。静かに口を開け、促されるままに受け取る。甘辛い脂が舌の上でとろけるように広がり、思わず息を漏らした。
「……おいしいですね」
「でしょう? じゃあ、今度はロースいきますね」
また「あーん」がやってくる。ロースは、カルビとは違ってあっさりとした旨味があった。どちらも、それぞれに美味しい。それぞれに良さがあった。
「ね、そこまで深刻に考えなくてもいいんですよ」
コリンズは、穏やかに笑った。その笑みには理屈も戦略もない。ただ、いま目の前にいる相手を安心させたいという、あたたかい気配だけがあった。
「スイッチも、羅針盤も、それぞれに弱点があります。でも、スターレイン先生はそのどちらの“良さ”も、“難しさ”も、ちゃんと理解している。それって、すごいことだと思いますよ」
スターレインは、返す言葉を見つけられなかった。自分がどれほど“正しくありたい”と願ってきたか、そしてどれだけ“正しくあらねば”と背負ってきたか。そのすべてが、いま、コリンズの一言でふとほどけていくような気がした。
「それに……こうして一緒に教育を語りながら焼き肉を食べてる時間。わたしはすごく幸せです」
そう言って、またひときれ、焼きたての肉を彼女の皿にそっと置いた。
スターレインは、そのとき、ほんの少しだけ目を潤ませた。目元に滲んだ光は、決して涙というほどではない。ただ、心の奥にある何かがやわらかく揺れ、溶けていくような、そんな感覚だった。
――教員になってから、わたしは実力主義の世界から少しずつ遠ざかっていた。
言葉と制度、共感と抑制、そういうものに守られながら、でも同時に、そういうものに縛られて、少しずつ“孤立”していたのかもしれない。
けれど、それでもいい。
今は、こうして誰かと食卓を囲み、悩みを語れた。それだけで、充分だった。
スターレインはゆっくりと視線を上げ、コリンズに小さく微笑み返した。
「……ありがとうございます。おいしいです」
それは、焼き肉の味だけではなかった。気づかぬうちに冷えていた心の隅々にまで、熱が行き渡っていくような、そんな優しい味だった。




