エピローグ:中庸
ふと気がつくと、景色が変わっていた。
気づけば私は、クディッチの試合会場の観覧席にいた。
どうやら、部活動の大会中にうたた寝をしてしまっていたようだ。
試合の展開はさっぱり分からない。そもそもクディッチという競技自体、未経験者からすれば恐ろしく「わかりにくい」うえに、正直なところ——退屈だ。
だが、昔の私であれば、こんな風には感じなかっただろう。いや、正確には「感じ方の切り替え方を知らなかった」のだ。
あの頃の私は、ワンゴンに教わったことを胸に刻み込んでいた。
彼の思想は常に極端だった。「人を導くには、先に尖らせろ」とでも言うように、彼は徳治と法治という両極の原理を羅針盤のように掲げ、それぞれの限界と可能性を体感させてくれた。
その方法論に従う中で、私は少しずつ中庸という立ち位置を獲得していった。
どちらにも偏らず、だが流されず。状況に応じて「いま必要な重心」を測る術を、私は学んだ。
だからこそ、たとえ目の前の試合がどうしようもなく退屈であったとしても——私はその退屈を「悪」として切り捨てたりはしない。
捉え方ひとつで、物事はいくらでも意味を変える。たとえば選手たちの動きに注目すれば、未熟な技術の中にひたむきさを見いだせるかもしれない。あるいは、応援する生徒の様子を観察することで、教室とは異なる一面を発見できるかもしれない。
結局のところ、「つまらない」と感じるものに対して、私たちはどこまで誠実になれるかが問われているのだ。
夢の中のあの頃の自分は、それをまだ知らなかった。
けれど、今の私は——羅針盤を持っている。
私は身を起こし、観覧席の背もたれにもたれていた体をゆっくりと立て直した。
試合はまだ続いている。
空を駆ける箒、歓声、砂塵、笛の音。
どれも私の心を大きく動かすことはないけれど、それでも、ここにいる意味がないわけじゃない。
あの子たちが懸命に飛んでいる。それだけで十分だ。土魔法の授業では見せたことのない表情。
教室では決して語らない言葉。
彼らが「生きている」瞬間を、私はただ静かに、観測する。
教育とは、支配でも感情の投影でもない。
可能性の芽を見つけ、根が張れるだけの土を整えてやることだ。育つかどうかは分からない。
けれど、見捨てなければ、芽吹くことだってある。
私は手帳を取り出し、そっとメモを走らせた。ある生徒の箒さばき。
応援席で声を張る子の名前。無意味に思える断片の中に、私は次の授業へのヒントを探している。
「期待しないけど、見ている。」
誰に向けた言葉でもない。
けれど、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だった。
どんなに空虚に思える時間にも、教師としての眼差しを絶やさない——それが、今の私なりの誠実さだ。
もうすぐ試合が終わる。風が吹いて、観客の応援旗がはためいた。
夢から醒めても、なお続いているこの日常を、私は悪くないと思っている。




