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彼女の名はスターレイン  作者: 狐御前
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第41話:小旅行


 それは、七月も下旬を迎えたある日、ふとした思いつきから決まった小旅行だった。

 期末成績の入力と面談指導の山を越え、ようやく訪れた夏季休業。職員室の空気にも静けさが戻る中、エリスが何気なく言ったのだ。


「ねえ、ちょっとリフレッシュしない? ……ほら、どこか涼しいところでキャンプとか。バーベキュー、川遊び、焚き火。どう?」


 その場にいたコリンズが、眼鏡越しに小さく頷いた。「いいですね、気分転換になるかも。スターレイン先生も、行きませんか?」


 スターレインはしばし沈黙し、銀灰の髪を指で払いながら答えた。


「……時間と資源の配分に無駄がないなら、問題はありません」


 こうして、三人の教員による一泊二日の“教育から最も遠い旅”が、静かに決行されたのだった。


 


 目的地は、学園から馬車で半日ほどの距離にある山の河川敷。浅く緩やかな流れと、小さな砂利浜、少し登れば見晴らしのよい丘もある、家族連れに人気のキャンプスポットだった。


 エリスは開放感に満ちた顔で、木々の香りを胸いっぱいに吸い込んでいる。青と赤のラインが入ったアウトドアウェアに身を包み、リュックからはしゃぎ気味にキットを取り出す。


「やっぱり自然っていいよね! これぞ夏休みって感じ!」


 その隣で、コリンズも控えめに笑みを浮かべながら、手慣れた様子でコンロや折りたたみ椅子を組み立てていた。


「たまにはこういうのも悪くないですよね……生徒の声も聞こえないし」


「うわあ、ちょっと言い方が怖いよ(笑)」


 二人が賑やかにバーベキューセットを広げ始めたちょうどそのとき――


 コン、と軽い音がした。


「……終わりました」


 ふり返ると、スターレインが静かに告げていた。


 そこには、すでに完全に整えられたサイトがあった。火起こし済みの焚き火台、水平に張られたタープ、ペグの角度まで美しく統一されたテントの姿。まるで儀式の祭壇のように、整然と、機能的に、美しく。


「……え?」


 エリスの目が丸くなる。


「えっ、ちょっと、今始めたばっかりじゃなかった? 火、ついてるし……椅子並んでるし……網の高さ絶妙だし……」


 コリンズが隣でぽつりと呟いた。


「……神業ですね」


 スターレインは首を傾げるようにして言った。


「元・冒険者ですので。山岳地帯での長期行軍や仮設拠点の構築は訓練済みです。最短での野営展開は、数年前のスワンプドラゴン戦でも……」


「いや、ドラゴンとか関係ないから!」


 エリスが思わず突っ込むと、スターレインはほんのわずかに目を細めた。冗談を理解したのか、それとも“事実に冗談を混ぜないでほしい”という静かな抗議だったのかは、判然としなかった。


 


 日が暮れはじめ、焚き火の灯が揺らぎ出すころ、三人はそれぞれの椅子に腰を下ろしていた。肉の焼ける音。風にそよぐ木の葉。遠くで子どもたちの歓声が聞こえる。


「……こうしてると、ほんとに仕事のこと忘れそう」


 エリスがコップの麦茶を揺らしながら言うと、コリンズが軽く笑った。


「忘れちゃいけないことと、忘れた方がいいことって、ありますからね」


「……同感です」


 スターレインが、無表情のまま小さく呟いた。


 焚き火の炎が、三人の顔を照らしていた。法治の星、徳治の灯、中庸の土。三つの教育観は、一晩だけ、揺れる焚き火のもとで静かに共存していた。



 星々は冷たい光を降らせ、風の音だけが、丘の木々を通り抜けていく。

 ひとつのテントの中から、規則正しい寝息が聞こえていた。コリンズだった。昼間の疲れが出たのか、夕食の片付けが終わる頃にはすでに目をこすっていた彼女は、誰よりも早く眠りについた。


 残されたのは、スターレインとエリスの二人だけだった。

 焚き火を挟んで向かい合いながら、言葉はないまま時間が過ぎる。エリスは肩に羽織をかけ、膝を抱え込むようにして静かに微笑んでいた。


「……ねえ、スターレイン先生」


 焚き火がぱちりと音を立てる。


「わたしね、これからも、あなたと一緒に働きたいなって思ってる」


 その言葉に、スターレインはすぐには応えなかった。

 淡い光の中で、ゆっくりとまぶたを伏せ、それから顔を上げて、焚き火越しに視線を合わせる。


「それは……無理です」


 声は、あまりに静かだった。感情はなかった。だが、確かに何かを拒む意志があった。


 エリスが目を細める。


「……なんで?」

「我々教員には異動がありますから」


 あまりにもあっけらかんとした現実が、ぽつりと投げ出された。

 その瞬間、エリスの口元が――笑った。


「……そっか。うん、まあ、そうだよね。教育制度って、そういうものだもんね」


 軽く肩をすくめて、エリスはひとりごとのように呟く。笑っているのに、どこかさみしげだった。


「でも……それでも、思うの。生徒のことはともかく、あなたの隣でなら、もう少しだけ頑張れそうな気がするんだよね」


 スターレインは何も言わなかった。焚き火を見つめたまま、微動だにせず、その言葉を受け止めていた。


「……制度って、やっぱりすごいよね。人の願いも、友情も、全部“異動”でチャラになるんだもん」


 苦笑混じりにそう言うと、エリスは立ち上がり、テントの方へ歩き出す。

 数歩進んだところで、ふと立ち止まる。


「……でも、また誘うから。そのとき、また“検討します”って言ってくれたら、嬉しいな」


 振り返らず、そう言って、エリスはテントへと姿を消した。


 焚き火の炎が、かすかに揺れる。風が通り抜ける音だけが、静寂の中を満たしていた。


 スターレインは、ほんのわずかに唇を動かした。だが、言葉にはならなかった。

 ただ――その瞳に映る星が、ほんの少しだけ、やわらかく滲んでいた。

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