第32話:心底どうでもいい
朝霧の残る路地裏を、フード付きのローブが静かに歩いていた。
フラワーリング魔法学園とは正反対の空気──人の声が粗く、金属と皮革の匂いが漂う石畳の一角。そこに、冒険者ギルドの木製の扉がひっそりと開かれていた。
エルルゥは、静かにその扉を押し、足を踏み入れる。
中はいつも通り、騒がしく、無遠慮だった。椅子を蹴り飛ばす音、契約金の叫び声、誰かが笑い、誰かが怒鳴る。
だが彼女は、その雑多な喧騒を、今は不快と感じなかった。むしろ、血の通った人間の匂いとして受け入れられた。
「……C級、これで」
受付の木製カウンターで、彼女は一枚の紙を差し出した。
数日かかる山間の調査依頼。かつてなら、教務や放課後学習会との兼ね合いを考え、絶対に選ばなかった依頼だった。
だが今日は違う。
「数日かかりますが、問題ありませんか?」
ギルド職員の問いに、エルルゥは小さく微笑んだ。
「ええ。問題ありません」
その瞬間、ポケットの中で通信機が震えた。
画面には、学園の番号。放課後学習会の担当教諭か、あるいは教務係か。
誰であれ、彼女が“いること”を当然のように求めてくる、いつもの世界の住人だ。
エルルゥは画面を見つめたまま、数秒だけ静止した。
そして、通話ボタンを押し、口元にあてる。
「──あ、はい。すみません、プライベートの都合で本日は休みます」
それだけ言うと、通話を切った。
相手の反応も、声の温度も、確認しなかった。
確認する必要など、どこにもなかった。
「……ざまあみろ」
小さく吐き捨てたその言葉は、音になったが、意味にはならなかった。
だが確かに、胸の奥のどこかで何かが剥がれ落ちたような感触があった。
「心底どうでもいい子どもたちのために、自分の時間を使うなんて──もったいないにもほどがある」
それは、教師として在り続けようとしてきた自分への、最初の明確な裏切りだった。
そして同時に、それが“自由”の第一歩にも思えた。
彼女は依頼の用紙を胸元に収め、ギルドの扉を背にして歩き出した。
その背中には、かつてなかった種類の重さが、かすかに消えていた。




