第3話:朝礼と喫煙所
まだ陽も登りきらぬ早朝、現場にはすでに数千の人影が揃っていた。
その数、三千四百十二名。
王都東部、《第一王立魔導研究所》建設予定地。国家最大級の総合魔導拠点。その起工式と共に行われる、第一回全体朝礼。
広大な更地に、仮設の足場が無数に組まれている。
ヘルメット、反射ベスト、安全靴、腕章、識別札――現場の作業員、魔導設備班、護衛部隊、資材業者、魔力供給業者、総務、設計、監督、各方面から集められたあらゆる職能者たちが、まるで軍隊のように整列していた。
——いや、整列している“ように見えた”だけだった。
「ヘルメット、ちゃんと被れって……」
「なあ、スターレインさんどこ……現場で会えるんだよな……」
「え、もういるの?あの人って朝礼来るタイプなの?」
そんなざわめきを背に、ステージ中央の魔導スクリーンが点灯する。
「——建設に関わるすべての者たちへ、我が言葉を授ける」
現れたのは、王国国王・マグリッド九世。
ヒゲと冠の似合わない、妙に肌ツヤだけが良い中年だった。
巨大スクリーンの中で、国王は満面の笑みで語る。
魔導国家の未来。偉大なる英知の礎。全市民への貢献。そして、このプロジェクトの歴史的意義。
その言葉は明朗で滑舌もよく、字幕まで表示されていた。
スターレインは作業班職長として第一列左端に立っていた。
ベストを着用し、安全帯を腰に巻き、魔導監理杖を背に背負う。表情は、いつも通り。
国王の顔が数十メートルの高さで微笑んでいる間、現場の職人たちはというと——
「……んぁ、ちょ、眩しい」
「スクリーン反射して眩しすぎて見えねぇんだけど……」
「ていうか国王の顔が朝一で出るって、怖くね……?」
とても国家事業の開幕とは思えない士気の低さだった。
やがて国王の演説が終わり、危険予測(KY)ミーティングに移る。
「本日の作業:足場組立・資材搬入・結界盤設置。
想定される危険:転落・落下物・魔導暴発・魔力障壁の誤展開」
進行係の声が響くが、作業員たちは上の空だった。
「……KY、ってなんの略だっけ……」
「危険予想って、ほんとに意味あんのか?」
「昨日の奴ら、バリア展開ミスって腕焦がしてたぞ……あれ大丈夫なんか……」
(……これはひどいですね)
スターレインは、冷静に現場を見渡した。
(国王のスクリーンと、薄いモチベーションと、睡眠不足。
一番危ない組み合わせです。足場が組まれる前でよかった)
スターレインは、静かに魔導監理杖の先端に魔力を灯した。
その紫の光だけが、朝の空気をほんの少しだけ、引き締めた。
国王のスクリーンが消え、場にようやく風が戻った。
メインステージに立っていたゼネコン直轄の監督がマイクを置き、緊張に満ちた「大朝礼」は形式的に幕を下ろす。
その直後だった。
後方に並んでいた下請け業者が、それぞれ自分の「班」に向かって再整列を始めた。
「おーい!〇〇組、こっち集まってー!」
「今日は本館側の掘削班なー!段取り確認するぞ!」
現場の端から端まで、数十の朝礼が同時多発的に展開されていく。
いわゆる「朝礼のあとにある、朝礼」である。
スターレインの所属も、そこに含まれていた。
彼女が属しているのは、ゼネコンの一次下請けにあたる**《天融工匠団》**。
魔導設備系を担当する準専門工で、人数は百二十名ほど。今日はスターレインが職長を務める結界盤施工班が、中央寄りのエリアに配属されていた。
「え……また朝礼やるんすか?」
「さっきのが朝礼じゃないの?もう国王の話も聞いたし……」
「これ、朝礼の朝礼ってこと?二段構え?」
職人たちの中には、目に見えて困惑している者もいた。
スターレインは、心の中で一つ深いため息をついた。
ゼネコン——つまり元請けが行う朝礼は、あくまで“全体周知”と“形式的な安全宣言”である。
だが、現場の実務は下請けが担っている以上、彼ら自身の間で再確認の場が必要になる。
そのため、朝礼が終わった後に、もう一度朝礼をするという奇妙な構造が生まれる。
「はい、おはようございまーす!」
「本日担当の方、ヘルメットと識別札よーし!KYやりまーす!」
明るく声を張る若い職長が、疲労顔の職人たちの前で危険予知を読み上げる。
内容は似たり寄ったりだが、ゼネコン側の朝礼では詳細に触れられなかった「本当の作業手順」が、ここでは共有される。
スターレインは淡々と現場全体を見渡していた。
職長の彼女は、今日のKY資料を事前に読み込み済み。危険ポイントも現地で再確認済み。
だが、他の職人たちは明らかに集中力を失っていた。
午前七時三十分。
朝礼の二連撃を経て、ようやく《第一王立魔導研究所》の敷地内に作業の音が満ち始めた。
スターレインが職長を務めるのは、結界盤基礎班。
この日の作業は、魔力制御盤の土台となる基礎構造の配置と、先行配線用の導管を敷設する段階。現場の地形は不整地、午前中は砂埃と照り返しが厄介だ。
「えーっと……番線の束、こっちでしたっけ?」
「いや、こっち先にやるって、昨日の段取りで……」
「誰か水線通しの結界紙、持ってきてくれー!」
現場では、作業員たちが少しずつ要領を掴みはじめていた。
とはいえ、班の半数以上は今日が初顔合わせ。言葉が通じても、気心は通じていない。
職長の役割は、指示と統括。
本来なら図面と工程表を睨みながら、指差し確認と危険排除に徹するのが理想——なのだが。
「すみません、こっちの穴、角度ずれてるみたいで……」
「やります。貸してください」
そう言って、スターレインはしゃがみ込み、自らスコップを握った。
紫のドレスの上に反射ベスト、安全帯に魔導具。
現場では浮きかねないその姿で、彼女は実に自然に“掘り”の作業に入る。
その手は器用で、道具の扱いも確かだった。
足場の傾斜を一目で見抜き、スコップの刃先を斜めに差し込んで抵抗を殺し、角度を補正する。土層を見て即座に「掘削中止→通電配管優先」と判断した場面もあった。
「……職長って、普通はやらないんじゃ……?」
「え、あの人自分でスコップ使ってる……えっ?」
冒険者出身の作業者たちは、見慣れない光景に混乱していた。
だが、現場職人たちの目は違った。
「……あの子、動きがちゃんとしてるな」
「スコップの入れ方、左利き用のクセあるけど、慣れてるぞ」
「魔導使えて、それでいて作業もできるなんて……いや、すごいな……」
スターレインは、職長という立場を一切“飾らず”、現場と一体化していた。
理由は一つ。
(……何も言わずに指示だけ出しても、動いてくれませんから)
作業というのは“信頼”で動く。
計画に変更が入ったとき、想定外の工程が発生したとき、職人たちは「言葉」ではなく、「人」で動くのだ。
(だから一度は、一緒にやっておくのがいい)
杖を持ち替え、スコップを置き、立ち上がる。
作業のペースが軌道に乗った頃、午前十時。休憩の合図が鳴る。
喫煙所は、ゼネコンが用意した仮設テントの一角に設けられていた。
風が抜ける位置にあり、ベンチが四脚、テーブル二つ、空き缶入れと吸殻入れが別で置かれている。灰皿には王都式の魔導浄化札が刺さっていた。
スターレインはそこに、静かに腰を下ろしていた。
手にしているのは、細身の黒銀のキセル。
口先は淡い紫色で、銀の線細工が星のようにあしらわれている。煙草ではなく、香草を練った現場用の“軽葉”。刺激は少なく、現場職人たちがよく好む嗜みだ。
「……ああ、キセル。いいですね。最近のは蒸れなくて」
「姉さん、それどこ製っすか?火口、細くていい味出てるなあ」
「北鋳区です。職人さんに作ってもらいました。軽くて、掃除も簡単です」
彼女はほんの少し笑いながら答え、煙をひと口吐いた。
その光景を、少し離れた仮設通路から見ていたのは——
「……あ、あれ……スターレインさん……?」
「えっ……喫煙所……えっ!?吸ってる!?いやいやいやいや……」
「え、なんであの人、職人さんと話してんの……え、笑ってる……!?!?」
冒険者たちは、目を見開いたまま立ち尽くしていた。
「いや、嘘だろ……あのスターレインが……キセル……?」
「てか、会話してる……ふつうに喋ってる……なじんでる……なじみすぎてる……!!」
「魔導士って……もっとこう……高貴で孤高で……違くない!?」
その場にいた全員が、静かに知ることになった。
スターレインは——
ただ強いだけの美人魔導士ではない。
現場で、職人たちと“煙を分け合える本物”だった。