第27話:窓越しの景色
窓の外から、スターレイン先生の教室を覗き込む。
昼下がりの光が、綺麗に磨かれた窓ガラスを透過し、内部に柔らかな白を落としていた。カーテンは両側にきちんとまとめられ、窓際に無駄な影はない。床には一つの紙切れも落ちておらず、教室は、まるで誰も使っていないかのように整っている――いや、使われているからこそ、こうなのだろう。
時計の針は、授業開始まであと二分。
すでに全員が自席に着き、筆記具の準備を終えている。私語はない。机の間隔すら等間隔に見えるのは、目の錯覚か、それとも集団の習性だろうか。
空気が張っている。
何かを待つというより、「何も起こさない」ための緊張。
教室全体が、“先生の意向”という名の重力に従って、沈黙の地形を形成していた。ここでは、誰もスターレイン先生に「ノー」とは言えない。それは個人の意志ではなく、集団による同調圧力として完成している。誰かが破った瞬間に崩れる秩序――ではなく、破ろうという意思そのものが育たない構造。徹底的な統制が、もはや自動運転の域に達している。
学園長はよく語る。
「生徒の主体性を尊重し、伸び伸びと学べる環境を――」と。
理念としては美しい。だが、理念はしばしば、現実の“秩序”という名の摩擦に弱い。
スターレイン先生のクラスは、あの校風の理念からはわずかに逸れている。だが、逸れているからこそ、崩れない。
問題は、起きない。
いや、正確には、“起きる余地がない”。
教師が支配するのではなく、クラス全体が教師の方針を“空気”として内面化し、自浄作用として働いている。それを成功と言うか、異常と言うかは――立場による。
職員室では、密かに異論もある。
「ちょっと息が詰まるよね」「あれじゃ生徒が可哀想だよ」と、声を潜めて話す教諭も少なくない。確かに、あの教室には“人間らしい揺らぎ”がない。情緒も衝突も、笑い声すら抑制されているように見える。
だが、荒れた教室で疲弊している教諭にとっては、あの光景こそ理想に映る。どちらが正しいかは、きっと誰にも断言できない。
私はただ、窓の外からその景色を眺めるだけだ。
整いすぎた静寂の中で、まっすぐ前を向いて座る生徒たち。そこに安心を感じる者もいれば、息苦しさを覚える者もいるだろう。
少なくとも、私が知っている“自然”とは、少し違っていた。
不思議なものだと、思う。
スターレイン先生は、いわゆる「優しい先生」ではない。生徒を笑顔で迎えることもなければ、声をかけて歩くタイプでもない。むしろ、その無表情と抑揚のない口調に、最初は身構える生徒も少なくないはずだ。
それでも、彼女の教室では、誰もが彼女を“信じて”いる。いや、“従っている”のではなく、“信じている”のだ。そこには形容しがたい安心感がある。言葉少なに指示を出し、感情を見せぬまま、必要なことだけを教えるその姿が、いつしか“信頼”へと昇華されていく。
人気がある。
エリス先生ほどではない。あちらは表情も言葉も華やかで、クラスに入れば空気が明るくなる。いわば“人を惹きつける”力においては、エリス先生が頭一つ抜けている。
だが、スターレイン先生もまた、確かに生徒の心を掴んでいる。コリンズ先生と比べれば、その差は明確だった。
ある日の放課後。職員室の片隅で、コリンズ先生がぽつりと呟いたのを、私は聞いた。
「……おかしいな。私の方が、生徒の気持ちに寄り添ってるつもりなのに……」
誰に向けるでもない、ほんの独り言だった。
それでもその言葉には、微かに湿った悔しさが滲んでいた。
コリンズ先生は、温和で、丁寧で、言葉を選び、いつだって生徒の立場を想像しながら対応している。それは本物の思いやりだ。だが、曖昧で、掴みどころがなく、どこか生徒の記憶には残りにくい。
スターレイン先生は違う。
彼女は、生徒の未来を背負おうとしない。そのかわり、生徒の判断を絶対に邪魔しない。責任は取らないが、見捨てもしない。その一線の明確さが、逆に“本気”を感じさせるのだろう。生徒は気づいている。彼女が本質的に「嘘をつかない教師」だということに。
それは、優しさとは違う。
だが、信頼に足るものだ。
「……人気なんて、どうでもいいんですけどね」
そう付け加えて、コリンズ先生は微笑んだ。強がりでも、演技でもない。たぶん、本音だった。
けれどその指先が、プリントを揃える手元でわずかに止まっていたのを、私は見てしまった。
だが、コリンズ先生はまだ幸せなほうだと思う。
彼女は、スターレイン先生とエリス先生という、思想の振れ幅が極端な二人に挟まれながら学級経営をしている。
一見すれば、やりにくさこの上ない環境に思えるだろう。だが、そういう教師たちの間に身を置けることは、長い目で見れば大きな経験値になる。法と徳、制度と感情――その両極端の実践例が、日常的に左右で展開されているのだから。
しかも、その二人はただ頑ななだけではない。
学年全体で起きるトラブル、いわゆる“越境的な問題”に関しては、どちらも意外なほど協力的だ。
スターレイン先生は必要な報告と連携を、無駄のないスピードで処理する。感情は込めないが、的確だ。
エリス先生は逆に、生徒の背景や心情まで汲み取ろうとし、時にコリンズ先生の負担を代わりに背負おうとすらする。善意ゆえの干渉ではあるが、そこに悪意はない。
――つまり、担任同士の仲は、世間で噂されるほど険悪ではない。むしろ、うまくやっている部類に入るのかもしれない。
少なくとも、私よりは。
私は担任ではない。非常勤講師として、時間割に沿って教室に入り、終われば無言で退出する。それが仕事だ。生徒指導に関わることもなければ、他の教師と学級経営を分かち合う場面もない。
教員同士の“信頼関係”という言葉が、遠い国の制度に思える。
授業中しか教室に入らない。
その事実が何を意味するか、誰も言葉にはしないけれど、全員が理解している。
私がここに“所属していない”ということを。
コリンズ先生が羨ましい、とまでは思わない。
けれど、彼女にはまだ“積み上げられるキャリア”がある。今の立場で吸収し、整理し、活かすことができる。その可能性があるうちは、希望はまだ死なない。
それに比べて私は――今この場にいることすら、仮の存在に近い。次の春に席があるかどうかも、誰にも保証されていない。
教員間の会話が穏やかに続いている。
私はそれを少し離れた席で聞きながら、目の前の教案に目を落とした。何度も修正を重ねた履歴書の下書きが、手帳の端に顔を覗かせている。
“仲が悪くない”とか、“連携が取れている”とか、そんなことに一喜一憂できるのは、本当はとても健全な証なのだろう。
けれど私は、その輪の外から、ただ音のない窓越しの風景のように、それを眺めているだけだ。




