表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼女の名はスターレイン  作者: 狐御前
追加エピソード
35/88

第24話:スターレイン先生との再会

 昼下がりの冒険者ギルドは、いつもどおりの空気だった。

 受付嬢が帳簿をめくり、剣の鍔を鳴らす音と、依頼書を読み上げる声が交錯する。誰もが用件だけを済ませ、必要以上に関わろうとはしない。言葉よりも仕事、主張よりも結果──この場所の流儀は、肌になじんでいた。


 エルルゥは壁際の木製ベンチに腰かけ、小さく欠伸をかみ殺した。今日の依頼は終わっている。受領印ももらった。あとは夕方の放課後学習会まで、しばしの無人時間だ。


 ──その静けさを、踏み荒らすような一団が入ってきた。


「……あれ?」


 扉の開く音とともに、背筋が凍るような気配が流れ込む。視線を上げると、入り口には見覚えのある姿があった。

 ひときわ目を引くのは、銀灰色の長い髪。毛先にほんのり紫を含んだ流麗なその髪は、風の中でも揺らがず、むしろ風そのものを従えているようだった。瞳は紫水晶──無表情の仮面に宿るその眼差しは、何をも見透かす観測者の冷たさと静謐を湛えていた。


 肩と胸元を大胆に露出した漆黒のドレス風衣装に、非対称に垂れる紫のスカート。腰のホルスターには魔法媒体の長杖、太ももには固定具、編み上げブーツとロンググローブが彼女の肢体を厳かに縁取っている。

 その頭上には、花飾りと魔法紋を刺繍した紫のとんがり帽子。奇矯でありながら儀式性を感じさせる装いは、見る者に“異界”を連想させるには十分すぎた。


 ──スターレイン。

 あの“スターレイン先生”だった。


 エルルゥは言葉を失った。職員室ではほとんど会話らしい会話を交わしたことはないが、その名と評判は耳にしていた。

 正規教諭で、王国に1人しかいないA級冒険者で、魔法詠唱を必要とせず、元職長で──とにかく、すべてが“逸脱している”人物。

 雲の上どころか、同じ大気を吸っているかどうかも疑わしい存在だった。


 その彼女が、生徒を連れてこのギルドにやってきた。


 背後には制服姿の生徒たちがぞろぞろと続いている。誰が誰かは分からない。正直、全員同じ顔に見える。声を上げ、はしゃぎ、明るい笑い声が辺りに跳ねる。「あっ、あの先生、学校で見たことある!」「ほんとだ、癒しの先生だー!」

 どうやら、こちらを見て騒いでいるらしい。


 ──癒し、ね。

 エルルゥは、笑顔の仮面を口元に貼り付けた。柔らかく、朗らかに、それでいて中身のない対応を、自然に口にする。


「まあ……ようこそ。今日は、どういったご用件で?」


 スターレインがわずかに首を傾げて言う。


「インターンシップの一環です。生徒に、実地依頼の空気を体験させておこうと思いまして」


 声は低く、滑らかで、感情の揺らぎがほとんどない。けれど、エルルゥの脳裏にはそれだけでじわりと疲労が滲む。

 この人は、それを“正しい”と判断したからここに来た。それだけだ。周囲の空気や気遣いといった、人間的な感情を介在させる余地などない。


 ──そして、私の“居場所”に、生徒を、連れてきた。


 このギルドだけが、私が私でいられる場所だった。

 制度に縛られず、評価を恐れず、仮面を外して、ただ“やれること”をやっていた時間。その静けさを、にぎやかで、眩しくて、何もわかっていない子どもたちと、その中心に立つ完璧な正規教諭が、土足で踏み抜いていく。


 不快だった。

 はっきりと、胸の奥がざらつくのを感じた。


 ──けれど、それもまた、表には出さない。


「それは……すばらしい取り組みですね。みなさん、ようこそいらっしゃいました」


 優しく、笑顔で。

 自分の名を呼ばれた生徒の一人が「うわ、優しそう!」と歓声を上げた。

 エルルゥは笑ったまま、心の中で息を吐いた。


 ──ああ、早く、帰ってくれないかしら。




 スターレインは、すでに冒険者を引退していた。

 教諭としての業務に専念するため、ギルドからは正式に身を引いた。──それでも、彼女はギルドの“英雄”だった。


 受付嬢が姿勢を正し、声を張る。普段はぞんざいな態度のギルド長すら、目尻に皺を寄せて立ち上がる。近くのベテラン冒険者たちが手を止め、小声で名を囁き合う。その誰もが、スターレインの存在を畏れ、そして尊敬していた。


「あの人が討伐したっていう、“竜”の話、聞いたか?」

「いや、俺は建設現場で一緒になったことある。あの人、魔法だけじゃないんだ。足場の組み方も……」

「服、今日もえらく露出してるけど、なんか文句言えない雰囲気あるよな……」


 そういう空気が、無言のうちに、確実に場を支配していく。

 ギルドの空気が変わる。硬質で、澄んで、重く、静かな敬意に包まれる。


 ──うんざりだった。


 エルルゥは、部屋の隅で、小さく舌打ちをした。

 誰にも聞こえない程度の、ごく小さな音。けれど、心の中では怒声に近かった。


 なぜ、彼女はすべてを持っているのだろう。

 教諭としても、冒険者としても、誰からも尊敬されている。

 異様な風貌ですら、スターレインが身に纏えば“品格”になる。自分が演じる仮面の“自然と癒し”が、彼女には素で備わっているように見える。


 劣等感という言葉すら、陳腐だった。

 この場にいるだけで、肺の奥がひりつく。足元がぐらつく。

 生きているだけで「違う」と突きつけられているような、この感覚──もう耐えられなかった。


 エルルゥは鞄を手に取り、ギルドの裏手にある古びたトイレに入った。扉を閉め、鍵をかけ、便座に腰を下ろす。カバンの中から、スマートミラーを取り出し、学校の連絡先を選ぶ。

 通信がつながるまでの数秒が、やたらと長く感じられた。


「……あの、すみません。今日なんですけど、ちょっと体調が……あの……ええ、はい、はい。お休み、いただいても……ありがとうございます。はい、すみません……」


 声は震えず、言葉も滑らかだった。

 体調不良の“演技”など、もう何度やったかわからない。

 その“話し方”すら、採用試験用に最適化されていた。


 通話を終えて、スマートミラーの画面を伏せる。

 深く息を吸ったはずなのに、何も吸い込めていないような息苦しさが残る。


 ──この精神状態で学校に行ったら、本当に壊れる。


「スターレイン先生が悪いわけじゃない」


 そう、わかっている。

 でも、どうしても、許せない。

 何も責められていないのに、圧迫される。

 何も見下されていないのに、存在が潰される。


「何もしてないのに、何もかも違う」


 唇の裏を噛んだ。血の味はしなかった。

 涙も出なかった。むしろ、そういう反応すら起きないほどに、心がすり減っていた。


 しばらく、そのまま、トイレの個室の中で目を閉じていた。

 世界に触れない数分だけが、自分を守る術だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ