第24話:スターレイン先生との再会
昼下がりの冒険者ギルドは、いつもどおりの空気だった。
受付嬢が帳簿をめくり、剣の鍔を鳴らす音と、依頼書を読み上げる声が交錯する。誰もが用件だけを済ませ、必要以上に関わろうとはしない。言葉よりも仕事、主張よりも結果──この場所の流儀は、肌になじんでいた。
エルルゥは壁際の木製ベンチに腰かけ、小さく欠伸をかみ殺した。今日の依頼は終わっている。受領印ももらった。あとは夕方の放課後学習会まで、しばしの無人時間だ。
──その静けさを、踏み荒らすような一団が入ってきた。
「……あれ?」
扉の開く音とともに、背筋が凍るような気配が流れ込む。視線を上げると、入り口には見覚えのある姿があった。
ひときわ目を引くのは、銀灰色の長い髪。毛先にほんのり紫を含んだ流麗なその髪は、風の中でも揺らがず、むしろ風そのものを従えているようだった。瞳は紫水晶──無表情の仮面に宿るその眼差しは、何をも見透かす観測者の冷たさと静謐を湛えていた。
肩と胸元を大胆に露出した漆黒のドレス風衣装に、非対称に垂れる紫のスカート。腰のホルスターには魔法媒体の長杖、太ももには固定具、編み上げブーツとロンググローブが彼女の肢体を厳かに縁取っている。
その頭上には、花飾りと魔法紋を刺繍した紫のとんがり帽子。奇矯でありながら儀式性を感じさせる装いは、見る者に“異界”を連想させるには十分すぎた。
──スターレイン。
あの“スターレイン先生”だった。
エルルゥは言葉を失った。職員室ではほとんど会話らしい会話を交わしたことはないが、その名と評判は耳にしていた。
正規教諭で、王国に1人しかいないA級冒険者で、魔法詠唱を必要とせず、元職長で──とにかく、すべてが“逸脱している”人物。
雲の上どころか、同じ大気を吸っているかどうかも疑わしい存在だった。
その彼女が、生徒を連れてこのギルドにやってきた。
背後には制服姿の生徒たちがぞろぞろと続いている。誰が誰かは分からない。正直、全員同じ顔に見える。声を上げ、はしゃぎ、明るい笑い声が辺りに跳ねる。「あっ、あの先生、学校で見たことある!」「ほんとだ、癒しの先生だー!」
どうやら、こちらを見て騒いでいるらしい。
──癒し、ね。
エルルゥは、笑顔の仮面を口元に貼り付けた。柔らかく、朗らかに、それでいて中身のない対応を、自然に口にする。
「まあ……ようこそ。今日は、どういったご用件で?」
スターレインがわずかに首を傾げて言う。
「インターンシップの一環です。生徒に、実地依頼の空気を体験させておこうと思いまして」
声は低く、滑らかで、感情の揺らぎがほとんどない。けれど、エルルゥの脳裏にはそれだけでじわりと疲労が滲む。
この人は、それを“正しい”と判断したからここに来た。それだけだ。周囲の空気や気遣いといった、人間的な感情を介在させる余地などない。
──そして、私の“居場所”に、生徒を、連れてきた。
このギルドだけが、私が私でいられる場所だった。
制度に縛られず、評価を恐れず、仮面を外して、ただ“やれること”をやっていた時間。その静けさを、にぎやかで、眩しくて、何もわかっていない子どもたちと、その中心に立つ完璧な正規教諭が、土足で踏み抜いていく。
不快だった。
はっきりと、胸の奥がざらつくのを感じた。
──けれど、それもまた、表には出さない。
「それは……すばらしい取り組みですね。みなさん、ようこそいらっしゃいました」
優しく、笑顔で。
自分の名を呼ばれた生徒の一人が「うわ、優しそう!」と歓声を上げた。
エルルゥは笑ったまま、心の中で息を吐いた。
──ああ、早く、帰ってくれないかしら。
スターレインは、すでに冒険者を引退していた。
教諭としての業務に専念するため、ギルドからは正式に身を引いた。──それでも、彼女はギルドの“英雄”だった。
受付嬢が姿勢を正し、声を張る。普段はぞんざいな態度のギルド長すら、目尻に皺を寄せて立ち上がる。近くのベテラン冒険者たちが手を止め、小声で名を囁き合う。その誰もが、スターレインの存在を畏れ、そして尊敬していた。
「あの人が討伐したっていう、“竜”の話、聞いたか?」
「いや、俺は建設現場で一緒になったことある。あの人、魔法だけじゃないんだ。足場の組み方も……」
「服、今日もえらく露出してるけど、なんか文句言えない雰囲気あるよな……」
そういう空気が、無言のうちに、確実に場を支配していく。
ギルドの空気が変わる。硬質で、澄んで、重く、静かな敬意に包まれる。
──うんざりだった。
エルルゥは、部屋の隅で、小さく舌打ちをした。
誰にも聞こえない程度の、ごく小さな音。けれど、心の中では怒声に近かった。
なぜ、彼女はすべてを持っているのだろう。
教諭としても、冒険者としても、誰からも尊敬されている。
異様な風貌ですら、スターレインが身に纏えば“品格”になる。自分が演じる仮面の“自然と癒し”が、彼女には素で備わっているように見える。
劣等感という言葉すら、陳腐だった。
この場にいるだけで、肺の奥がひりつく。足元がぐらつく。
生きているだけで「違う」と突きつけられているような、この感覚──もう耐えられなかった。
エルルゥは鞄を手に取り、ギルドの裏手にある古びたトイレに入った。扉を閉め、鍵をかけ、便座に腰を下ろす。カバンの中から、スマートミラーを取り出し、学校の連絡先を選ぶ。
通信がつながるまでの数秒が、やたらと長く感じられた。
「……あの、すみません。今日なんですけど、ちょっと体調が……あの……ええ、はい、はい。お休み、いただいても……ありがとうございます。はい、すみません……」
声は震えず、言葉も滑らかだった。
体調不良の“演技”など、もう何度やったかわからない。
その“話し方”すら、採用試験用に最適化されていた。
通話を終えて、スマートミラーの画面を伏せる。
深く息を吸ったはずなのに、何も吸い込めていないような息苦しさが残る。
──この精神状態で学校に行ったら、本当に壊れる。
「スターレイン先生が悪いわけじゃない」
そう、わかっている。
でも、どうしても、許せない。
何も責められていないのに、圧迫される。
何も見下されていないのに、存在が潰される。
「何もしてないのに、何もかも違う」
唇の裏を噛んだ。血の味はしなかった。
涙も出なかった。むしろ、そういう反応すら起きないほどに、心がすり減っていた。
しばらく、そのまま、トイレの個室の中で目を閉じていた。
世界に触れない数分だけが、自分を守る術だった。




