エピローグ:もう一つの進級
新年度の朝、春の風がまだ冷たさをわずかに残したまま、フラワーリング魔法学園の廊下をすり抜けていく。
スターレインは、一歩ずつ教室に近づいていた。
今年度、自分が担任を務めることになった新しい学年、新しいクラス。
すでに学年会議の段階で、生徒名簿には目を通している。誰がどんな成績か、誰が昨年度どんな言動をしていたか、紙の上では把握していた。
それでも——教室の扉の前で、ふと立ち止まった。
扉のガラス越しに、教室の中をそっと覗く。
そこには、すでに数名の生徒が登校してきており、思い思いの席に腰掛けている。
顔は、どこかで見た記憶がある者もいれば、完全に初対面のように感じる者もいる。
その感覚に、スターレインは奇妙な安堵を覚えた。
「名簿に載っていた生徒が、本当に“いる”」——ただ、それだけのことが、今の自分にはほんの少し、救いだった。
だがその直後、胸の奥に小さな違和感が生まれる。
——なぜ、自分は“安心”しているのだろう?
思考が沈み込む。
教室を改めて見渡したとき、ふと気づいた。
明確に顔と名前が一致し、性格や口癖まで“見えている”生徒が、わずかにいる。
一人は、昨年秋ごろからよく廊下で挨拶をしてくれていた男子生徒。
時間に正確で、提出物はきっちり出すが、実技科目ではやや手を抜く癖がある。
でも、文化祭のときには影で照明を全て調整してくれた、縁の下の力持ちだ。
もう一人は、議論になると必ず発言する女子生徒。
言葉選びが丁寧で、論理的思考が得意。ただ、そのぶん感情の機微に少し鈍い。
だが卒業式では、誰よりも長く、涙をこらえて拍手していた。
最後の一人は、名前しか知らなかった生徒。
だがある日、教室のゴミ箱がひっくり返った時、誰よりも早くそれを拾い始めた。
目立たないけれど、そういう瞬間だけ、妙に真っ直ぐな背中を見せる子だった。
数は多くない。
でも、確かに“見えている”生徒がいる。
その事実に、スターレインはふと息を止めた。
(……わたし、去年よりも、ちゃんと“見えるようになった”のかもしれない)
生徒たちの個性が、自然と脳裏に浮かんできた。
書類ではなく、日々の観察と、心の記憶として。
——“教員としての一年”が、確かに自分の中に積み重なっている。
そう思ったとき、胸の奥がじんわりと温かくなった。
ふと、視線を横に向ける。
隣のクラスの教室前にも、ひとりの女性が立っていた。
エリス先生だった。
彼女もまた、教室を覗き込んでいた。
だがその表情は、緊張よりもむしろ、どこか嬉しそうだった。
生徒の姿を確認し、静かに頷く。
彼女もまた、自分なりの歩みでこの一年を迎えているのだろう。
スターレインと視線が合った。
エリスは、微笑んだ。
——言葉はなかった。けれど、それは確かな“祝福”だった。
スターレインも、自然と頬が緩んでいくのを止められなかった。
ほんの少しだけ、口元をゆるめて、わずかに頭を下げる。
新しい一年が、また始まる。
そしてそれは、彼女にとって——かけがえのない、“もう一つの進級”だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
これにて本編は完結となります。
次章以降はサブストーリーとなります。




