第2話:国家プロジェクト
王都の中央議会が、ついに動いた。
魔法技術の国家管理と、軍事転用を前提とした大規模な研究拠点の設立——通称《第一王立魔導研究所》の建設が、正式に閣議決定されたのである。
報道は昼前には都市中に行き渡り、午後にはもう、冒険者ギルドにも伝達が届いていた。
「研究所、建つらしいぜ」
「王朝直轄だってよ。やっぱ、魔法って儲かるんだなぁ」
「任意召集だろ?ギルド経由で登録すれば、月三十万後半……それ以上も出るかもって話だ」
「え、それマジ?え、固定給?まさかの……」
ギルドの食堂はざわついていた。普段は注文を待つ者と、疲れた者と、飲んだくれで静まり返るだけの空間が、この日ばかりは熱気を帯びていた。
冒険者たちは声を潜めながら、目だけはぎらつかせていた。
名誉か。金か。あるいは安定か。
だが、誰もが“可能性”に惹かれていた。
そんな熱に包まれた食堂の一角。最も静かな席に、ひとりの女がいた。
彼女は他の誰とも会話を交わさず、ただ黙って缶ビールを傾けている。
その姿は、喧騒の中でも異質だった。
帽子は深く被られている。紫を基調とした尖塔型の魔導帽で、縁には銀糸で刺繍された古式の魔法紋、そして左側には儚げな紫の花飾りがひとつ。
肩と胸元が大胆に露出した漆黒のドレス風上衣は、軽やかな布地と繊細な裁ちで構成され、決して下品には映らない。むしろ、それは“儀式服”として完成された装束のようだった。
紫と黒の非対称なスカートは腰から斜めに流れ、足を組んだ際の視線の誘導さえ計算されているかのような造形。右太ももには一本の黒革ベルトが巻かれ、銀製の魔法具が装飾のように下がっていた。
肘まで覆うロンググローブと、膝上まで伸びる編み上げブーツ。どちらも戦闘に適した素材でありながら、色彩と造形が完璧に調和し、彼女の存在そのものを“作品”と呼ぶにふさわしく仕立てていた。
そして、何よりその容貌。
銀灰色のロングヘアは毛先にかけてほんのりと紫を帯びており、陽の光で柔らかく揺れるたび、見る者の胸にかすかな非現実を刻む。
紫水晶のような瞳は、ただ一点を見つめるだけで、周囲の空気を静止させる。感情は見えない。だが、そこに「熱がない」わけではない。
むしろ、熱を極限まで抑えた者だけが持つ、氷点下の炎のような緊張があった。
——スターレイン。
その名を知る者は多いが、その言葉を交わした者は少ない。
彼女は噂話を聞くともなく、手元の缶をプシュと開けていた。
銀色の缶には、安価な麦芽ビールのラベル。決して高級品ではないが、冷えていればそれでよかった。
「……」
口元に運び、少しだけ飲む。
そして、机に静かに置いた。
ギルドの奥では、若手の冒険者たちがわざとらしく近くの席に座り始めていた。
「なぁ……スターレインさんも、あの研究所、行くのかな……」
「うーん……あんな見た目で、あの強さ……ちょっと、雲の上すぎて声かけらんねぇ……」
無言の彼女は、そんな声を気にする素振りもない。
ただ黙々と缶を傾け、視線を下げ、紫の爪先を揃えていた。
その仕草すら、どこか美しかった。
王都の政治がどう動こうと、国家がいかなる構想を描こうと、スターレインという魔導士の歩調が乱れることはない。
缶の残りを口に運び、スターレインがビールを飲み干した、そのときだった。
「……スターレイン。いるか」
食堂の奥から、低く太い声が響いた。
全員の視線が一斉に声の主へ向く。ギルドの受付嬢ではない。もっと、上だ。
ギルド長——バリク・ローダン。その名を知らぬ冒険者は、まずいない。齢五十を過ぎた元Aランクの戦士。粗野で頑固で、だがギルドの運営と冒険者の命を何よりも重んじる、“現場主義”の男である。
そのバリクが、食堂にまで降りてきた。
スターレインは、缶をテーブルの端にそっと置き、帽子の縁に軽く指を添えた。
「……はい。なんでしょうか」
「すまんが、ギルド長室まで来てもらえるか。すぐにだ」
ざわつく冒険者たち。視線が、彼女の背に突き刺さる。
何かあったのか?まさか問題でも?飛竜の件で報告ミスでも?
だが、当の本人はいたって能天気だった。
(……なにか、やらかしたっけ? 飛竜は倒したし、燃やしたのはたぶん合法の範囲……)
思考は緩く流れ、彼女はそのまま静かに席を立つ。
—
ギルド長室は、石造りの重厚な扉の向こうにあった。
窓には分厚いカーテン、棚には地図と契約書、机の上には山積みの文書。だが、それらを圧倒する存在感で椅子にふんぞり返る男が、ギルド長・バリクである。
「……さて。突然呼び出して悪かったな」
スターレインは椅子に座らず、ドアの傍に立ったまま小さく頷いた。
「構いません。何か、処分が?」
「処分じゃない。命令だ」
バリクは机の引き出しから一枚の紙を引き出した。
王朝発行の魔導研究所派遣要請書。冒険者ギルド宛。
「……お前が“職長資格”を持ってるって話を上から聞いた」
スターレインの瞳が、微かに瞬いた。
「……はい。まあ、建設現場で……少しだけ」
「記録を見たら、現場で主任務務めてたのが三件以上。監督免許も取得済み。しかもA級魔導士で、ソロ。戦闘も現場もこなせる人材なんて、まずいない」
スターレインは黙って聞いていた。
「……そこでだ」
バリクは身を乗り出し、分厚い指で書類を叩いた。
「命令だ。行ってくれ、スターレイン。《第一王立魔導研究所》建設班。
月給は四十万。交通費と食費、寮費は込みだ。異動は明後日だ」
「……」
静かに目を伏せるスターレイン。
ただ帽子に触れ、深く一礼する。
「承知しました。……命令ですので」
「よし。助かる。あの現場、上も下も素人だらけなんだ。お前みたいな“本物”がいなきゃ、話にならねぇ」
スターレインは部屋を出ると、再びギルドの廊下を歩いた。
外はまだ明るかったが、夕刻の風が少し冷たくなっていた。
紫のスカートが微かに揺れ、帽子の花飾りがひとつ、からんと音を立てた。
だがその脳裏では、先ほどのバリクの言葉が反芻されていた。
《命令だ。行け、スターレイン。月給は四十万だ》
(……やはり、おかしいですね)
ギルド長の語気は強かったが、彼女に対する評価そのものは事実だった。
戦闘能力、資格、現場経験、管理能力。そのすべてを知ったうえでの配置。
だとすれば――なぜ、たった四十万なのか。
(まず、金額が安い。現場職長で戦闘担当も兼任。しかも魔導士。
通常なら少なくとも五十は出すべき……調整手当もついていない)
理由は一つしかない。
(……これは、ギルドとしての“顔”を守るためですね)
王朝の国家プロジェクト。
研究所の建設は、政治的にも魔法界的にも巨大な意味を持つ。
その初期工事に冒険者が派遣される――
そこで事故や不手際があれば、「冒険者=無能」「戦闘以外は役に立たない」という評判が広まりかねない。
ギルド長・バリクが恐れているのは、それだ。
冒険者という組織全体が、世間から“現場を乱す者”として認識されること。
(……つまり私は、“保険”ですね。冒険者ギルドの信用を守るための)
現場における最小限の監督、事故予防、書類対応、国側の職人との調整。
これらをこなせる人材として、スターレインは抜擢された――名指しで。
(……勝手に“信用枠”に組み込まれてるの、わりと腹立たしいです)
もちろん、彼女はそれを言葉にしない。
感情を表に出せば、その瞬間から他人にコントロールされる。
だから、冷静に。静かに。ただ心の中だけで、まとめておく。
(それにしても、月四十万。……安すぎます)
資格あり、戦闘対応あり、書類も通る。
加えて、ギルドという看板の維持のために使われる。
(これは、もはや割に合わないのでは……)
額面の数字を思い出すたびに、冷蔵庫に並ぶ麦芽ビールの銘柄を一本ずつ減額していく自分の姿が脳裏をよぎった。
(プレモ◯より下……いや、第三……あれ?最悪、発泡酒……?)
少しだけ、眉が動きそうになるのを堪えた。
(――だからといって、断る選択肢がないのが、また面倒です)
ギルドという組織の一員である以上、命令には従わねばならない。
それが“法”であり、彼女が唯一信じる秩序だ。
(……でも、やっぱり。私を巻き込むの、やめてほしいですね)
誰にも聞かれない声で、そっと、胸の中にだけそう呟いた。
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