第19話:情報収集
二学期の学級経営において、「係活動の決定」は最重要課題の一つである。
一学期は、新しい環境に戸惑う生徒たちの心理的な抑制も働き、多少の混乱があっても比較的穏やかに収束する傾向にある。三学期に至っては、「あと少しで終わる」という明確なゴールが見えており、生徒たち自身の自制心や惰性も手伝って、大きな乱れに発展することは少ない。
しかし、二学期は違う。
文化発表会や合唱コンクール、修学旅行といった大規模な行事が連続して配置され、学級という小さな社会に非日常的な波が幾度も押し寄せる。これらの行事は、生徒の協調性や自律性を育む重要な機会である反面、リーダー不在・責任感の欠如・対立構造の放置といった要因が重なると、学級全体の秩序を根底から揺るがす引き金となり得る。
加えて、夏季休暇という長期の空白期間が、生徒たちに“余計な知恵”や新たな価値観を与える場合もある。YouT〇beやSNS、部活動での交友関係など、学校外から得た影響が、クラス内の人間関係に予期せぬ火種を持ち込むことも少なくない。
一学期に円滑に機能していた係や役割分担が、二学期にそのまま継続して有効であるとは限らないのである。
ゆえに、二学期の入り口でどのようなリーダーを配置し、どのように係の責任と裁量を明確化するかは、学級の安定と発展を左右する重大な判断となる。
この考え方をスターレインは、特任指導教諭であるロレッタ先生から授かった。二学期は行事が連続する「動乱期」であり、担任がある程度介入してでも「良きリーダー」を配置せよというのが彼女の指針だった。
もちろん、組織の一員として、学年主任や1組・2組の担任の意見を仰ぐべきだという建前は理解している。
しかし、スターレインはその選択を意図的に取らなかった。理由は明確である。一学期の早い段階でロレッタ先生がこう語ったのを、スターレインは忘れていない。
「意見を求めておきながら、それが採用されなかったとき、人は必ず“拒絶された”と受け取るものです。特に、提案を通したいという気持ちが強ければ強いほどね。初任者であっても例外じゃない。むしろ、だからこそ慎重に動くべき」
その言葉を聞いた瞬間、スターレインの中で一つの方針が定まった。
たとえ傲慢と思われようとも――
たとえ「初任のくせに、わたしたちの意見も聞かずに動くとは何様だ」と背中で呟かれようとも――
そのリスクを受け入れること自体が、教師としての経験値になる。
そう信じて動くことにした。
初任者にとって、真に優先すべき指針とは何か。スターレインの中ではそれは明白である。
最も教育観の軸がぶれず、最も現場の秩序維持に責任を負っている人物――ロレッタ先生。その助言こそが、他の誰の言葉よりも一段階上の優先度を持つ。
もちろん、それがすべて正しいとは限らない。だが、スターレインにとってそれは、「正解を探すための判断基準」ではなく、「混乱のなかで軸を見失わないための羅針盤」である。
二学期が始まる前日、午後の学年会議が静かに終わりかけたそのとき、スターレインは一つの発言を切り出した。
「二学期の係活動の方針についてですが……私は、特任指導教諭であるロレッタ先生以外には、助言を求めないという判断をしました」
空気がわずかに動いた。教員歴の長い者ほど、その言葉の持つ意味を即座に悟った。初任者が、学年主任にも、他担任にも、助言を求めないと公言する。それはときに、無礼と受け取られてもおかしくない言い回しだ。だがスターレインは、その瞳に一片の動揺もなかった。
「ですが——」
彼女は続けた。
「一組と二組の運営方針、そして学年主任の視点も、私には必要です。知っておくべきだと考えています」
その言葉に込められた意図を、ロレッタだけが正確に読み取っていた。スターレインは、他者のやり方を参考にするつもりはある。しかしそのために、安易に「教えてほしい」と頭を下げて回り、火種を撒くような真似はしたくない。だからこそ、最も高い立場でありながら利害関係の薄いロレッタに、その橋渡しを依頼したのだ。まるで、“最小限の政治”とでも呼ぶべき立ち回りだった。
それは一歩間違えれば、特任指導教諭に仕事を命じているようにも見える“越権”だったが——ロレッタは眉一つ動かさなかった。
「承知しました」
と、あの滑らかで澄んだ声が応じた。
「あなたの考えは理解しています。必要な情報をお伝えできるよう、わたくしから伺ってまいりましょう」
その日のうちに、ロレッタは各教員の元を回った。教室ではなく、控え室でもなく、誰にも見られない中で。
「スターレイン先生から、“この件についてはロレッタ先生を通じて伺いたい”という要望がありました」
そう前置きした上で、ロレッタは必ず一言を添えた。
「彼女は決して、皆様の意見を軽んじたわけではありません。むしろ、彼女なりに余計な火種を避けようとした末の判断です。責めずにいてくださると、ありがたいのですが——」
その言葉に、誰も否定の色を見せなかった。むしろ、ロレッタの姿勢に頷き、互いに小さく笑みを交わした。
そうして、スターレインの元には、誰の顔色も気にせずに済む形で、四つの方針と助言が静かに集まっていった。
それは確かに「自分だけで動いている」ようでいて——
実際には、誰よりも他者の意図と立場を尊重した、冷静かつ精密な関係構築のひとつだった。
放課後、校舎の玄関前。西日が差し込み、床に細長い影が落ちていた。
スターレインが靴を履き替えようとしていたそのとき、背後から軽やかな声が飛んできた。
「随分と思い切ったことを宣言したね?」
振り返ると、そこにはエリスがいた。いつも通りの柔らかな笑みを湛えたまま、しかし瞳には少しばかりの困惑と興味が混ざっていた。
「一歩間違えれば、職員室で完全に浮くことになったよ」
スターレインは何も言わず、廊下に向き直る。そしてひと呼吸置いてから、淡々と告げた。
「もう浮いてます」
エリスの目がぱちりと瞬く。次の瞬間、ふっと笑みを漏らした。
「……そうだったね」
そう言いながら、彼女は隣に立ち、靴音を響かせて歩き出す。
「じゃあ、一緒に帰ろっか。たまには話す時間も欲しかったし」
スターレインはそれに何も言わず、ただ歩調を合わせた。玄関の扉が音を立てて閉まり、二人は夕暮れの風に包まれながら並んで歩き出す。
数歩進んだところで、エリスが小さく問いかけた。
「ところで、私の名前を挙げなかったのはどうして?こんなに尽くしてるのに、エリス先生、少し悲しいなぁ」
スターレインは一度立ち止まり、少しだけ空を見上げた。そして、落ち着いた声で答える。
「学年会議で、他学年の教員——エリス先生の名前を挙げるのは危険だと判断しました」
「……ふむ。理屈は理解できるけどさ」
エリスは肩をすくめ、ほんのわずかに頬を膨らませた。
「学校っていうのは“すべての学年を通じて子供を育てる場所”だって、知ってる?」
「知ってます。ですが——」
スターレインは歩きながら視線を前に戻す。
「人の感情は、制度についてきていません。多くの先生方は、学年という“島”をとても大切にしています」
「……うーん」
エリスは苦笑いを浮かべた。
「否定できない自分が辛いなあ、ほんと」
風が二人の髪を揺らす。短い沈黙のあと、スターレインがふいに声を落とす。
「それと……」
エリスが横目でちらりと彼女を見る。
「それと?」
「エリス先生なら、こうして——普通に聞いても、教えてくれると思いましたから」
その言葉を受けた瞬間、エリスの足が一瞬止まった。
「……っ」
表情があっという間に崩れ、みるみるうちに頬が真っ赤になる。
「その“信頼の置き方”ずるいって……ほんとに……」
夕日が落ちていく中、エリスは顔を覆うように手を上げて歩き出す。その肩が、何度も震えていたのは、たぶん風のせいではなかった。




