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第18話:生きる力

 

 翌朝の列車は、空調の効いた静かな空間に規則正しい振動を響かせていた。窓の外を流れる夏の景色は、都市と緑とが混じり合い、時間の経過をゆるやかに知らせてくれる。スターレインは淡い紫のワンピースをまとい、バッグには魔法媒体の杖を忍ばせていたが、それ以外はごく普通の旅行客の装いだった。


「ちゃんと寝られた?」


 隣の席から、エリスが小声で問う。赤と青をアクセントにしたカジュアルなブラウスに、少し大きめのサングラス。その姿は普段の教壇に立つ姿とは違い、どこか気の抜けた柔らかさがあった。


「……問題ありません。むしろ、冷房が適度で寝やすかったです」

「うん、それならよかった」

 二人は言葉少なに微笑み合いながら、目的地の遊園地へと向かった。


 午前中の遊園地は、文字通り「非日常」に満ちていた。

 回転するティーカップ、風に舞う気球型ライド、ミニジェットコースター。スターレインはやや距離を取りながらも、エリスに手を引かれ、小さなアトラクションをいくつか巡っていた。


「ほら、これとか乗ってみよ? “アトランティス”だって。中は涼しいらしいよ」

「火山の噴火で消し飛びそうな名前ですね……」

「不謹慎なこと言わない。はい、手」

「……はい」


 エリスが指先を重ねると、スターレインはほんの一瞬だけ目を伏せた。しかしそれは拒否ではなく、淡い承諾。二人の距離は、まるで昨夜から続く温度の余韻を保ったまま、穏やかに遊園地の中を流れていった。


 だが、午後――その空気はふとした瞬間に壊された。


 スターレインがソフトクリームを受け取った直後、視界の端に、特徴的な制服の一団が映った。紺色のケープに淡い金糸の縁取り――フラワーリング魔法学園の制服だ。

 しかも、その中心にいた少女は――。


「……先生?」


 瞬間、周囲の音が遠ざかった気がした。振り返ったスターレインの瞳が、わずかに揺れる。制服の少女――それは、スターレインのクラスに所属する生徒のひとりだった。生真面目で、内申に敏感で、いつも教師の一挙手一投足を見逃さないタイプ。


 彼女の口が何かを言いかけた、その刹那だった。

 背後から大人の声が飛んでくる。


「ああ、先生方でしたか。まさかこんなところで」


 保護者だった。落ち着いた身なりに丁寧な口調。瞬間、エリスもスターレインも、まるでスイッチを切り替えるように教員としての表情に戻った。


「お世話になっております。休暇中に、偶然ですね」

「こちらこそ、いつもありがとうございます。先生方も、お休みはちゃんと取れているようで、なによりです」


 生徒は緊張した様子で、ただ小さく頭を下げる。

 互いに形式だけの笑顔を交わしたあと、保護者は「それでは、失礼します」と言って娘の肩を軽く叩き、立ち去っていった。

 去っていく背中を見送りながら、スターレインはソフトクリームをひと口食べたが、その味はもはや、甘さも冷たさも感じなかった。



 観覧車の下、日陰に腰を下ろしていたスターレインは、沈黙の中で口を開いた。


「……やはり、わたしは教員なのでしょうね。こういう時、現実を強く思い出します」


「うん、わたしも」


 エリスは、あえて明るくも悲しくもならない声で答えた。感情の行き場を限定しない、それは大人の教師が身につけた“回避の術”でもある。


「休暇は休暇。そう思いたくても、あの子の目を見た瞬間に、戻されちゃうね」

「はい。“先生”という役割は、都合よく脱ぎ捨てることができないようです」


 沈黙。

 少しの風が吹き抜ける。エリスが手にしていた風船が、やわらかく揺れた。


「帰ろっか」

「……はい」


 スターレインは立ち上がり、魔法でアイスのゴミを消しながら言った。

「ここにいても、楽しい記憶として残る保証はありません」


「じゃあ、また別の場所で……“わたしたちだけ”の時間、作ろうね」


 エリスのその言葉に、スターレインは答えなかった。

 ただ、肩越しに彼女を見て、静かに歩き出した。その背に、先ほどまでの遊園地の喧騒が、皮肉のように明るく響いていた。


 遊園地を出た帰り道、日は傾きかけていた。

 街灯がまだ灯らない夕暮れの歩道に、スーツ姿の男女がちらほらと行き交っている。


 スターレインは無言のままその光景を見やり、違和感の正体を探っていた。普段の土曜には見かけない、整えられた髪と、堅い表情の列。ふと、目の前を通り過ぎた青年が抱える黒いフォルダの角に、魔法局の印章が見えた。


「……あれは」


「教員採用試験の受験生、ですね」

 そう呟いたのは、エリスだった。笑っても泣いてもいない、まっすぐな声音だった。


 その言葉に、スターレインは目を細めて、彼らの進む先を見る。彼らは近くの私立魔法学校の門をくぐり、誰もが似たような無言で歩みを進めていた。


「この時期だったんだ。そっか……そうだよね」


 エリスの声に、少しだけ曇りが混じる。

 そして、自分の額にかかる髪をかきあげるようにして、続けた。


「なんで忘れてたんだろう、わたし……。講師のときは、この時期が一番、嫌いだったのに」


 スターレインは足を止めず、隣で静かに歩きながら、視線だけをエリスに向けた。

 エリスは、前を見たままぽつりと言葉を落とす。


「二次試験の結果が届いて、不合格の文字を見て……。『あなたはいりません』って言われる感じで。もう、たまらなく辛かった」


 言葉に込められたのは、過去を掘り起こす苦味だった。

 どれほど準備しても、どれだけ生徒の前で頑張っても、“紙一枚の選別”に人生を揺さぶられるあの日々。彼女の笑顔の奥にずっと潜んでいたもの。


「でも、不思議だよね……」

 エリスは自嘲気味に笑った。

「合格したら、あっという間に忘れちゃうんだもん。あのときの悔しさとか、夜眠れなかったこととか……ごめんねって感じ」


 その隣で、スターレインは歩調を崩さずに答えた。


「……わたしは、試験に落ちても生きていけるので、合否はあまり気にしていませんでした」


 その声には、嘘も謙遜もなかった。ただ事実を述べるように。

 エリスは立ち止まり、振り返るようにして彼女の顔を見る。目を見開き、息を呑んだ。


「……そうだよね。スターレイン先生は、冒険者としても、職人としても優秀で……」


 その言葉の途中で、スターレインは立ち止まり、軽く右手を上げて遮った。

 そして、言った。


「エリス先生」


 ゆっくりと、しかし迷いのない声で。


「わたしたちの役目は、生徒の芯を強く育てることです。

 強靭な精神力と、生き方の選択肢を広げることができる――それが、教育者という立派な職業です」


 その言葉はまるで、教育という職に対する宣誓のようだった。


「過去にこだわっている暇はありません。

 “わたし”がどうだったかより、“あの子たち”がどう生きるかが、優先されるべきです」


 風が、街路樹の葉をかすかに揺らした。

 エリスはしばらく無言のまま、スターレインを見つめていた。彼女の瞳はいつものように冷静で、だがその奥には、信念という名の火が確かに灯っていた。


「……そうだね」

 エリスは、小さく笑った。

 その笑みは、少し照れくさく、でもどこか救われたようでもあった。


「やっぱり、あなたって本当に……まっすぐで、かっこいいよ」


 スターレインは答えなかった。ただ、少しだけ顔を背けて、静かに歩き出した。

 二人の背後では、今もなお試験会場に向かう若者たちの列が続いていた。


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