第17話:夏休み
一学期の終業式が、粛々と終わった。
長いようで短かった一学期。騒ぎはあったが、破綻には至らなかった。
誰かが涙を流すような決定的な事件もなく、教室は一定の秩序を保ち続け、校舎の天井は一度も崩れなかった。——その事実だけでも、教育機関としての体裁は保たれたのだ。
そして、教諭たちにもまた、夏休みが訪れる。
形式上は「夏季休業期間」。
だが実際には、保護者面談、研修参加、部活動指導、進路資料の作成など、名目上の“仕事”が満ちている。完全な休息など、制度上どこにも保証されていない。
——それでも、生徒の顔色を毎日読み取る必要がないという一点において、夏休みは教員にとって「相対的な安堵」をもたらす時間である。
職員室の空調はよく効いている。
照明の下、机に頬杖をついたエリスが、クッキーの袋を片手に書類をめくるふりをしている。
口元には甘い笑み。明らかに仕事をしている顔ではなかった。
対して、向かいのデスクでは、ロレッタが時計を三たびチラ見し、ペンを置いた。
特に急ぎの仕事があるわけでもないが、彼女の手帳には「17:00退庁」と書かれている。
今日という一日を、時間通りに終える。そう決めた顔だった。
夏休み中、時間が空いた教員にとって最も“正しい”行動は、二学期に向けた教材研究や資料整備である。目標設定と課題分析。指導案の見直し。授業内での発問構造の再設計……。
だが、それを“正しい”と知りつつも、あえて怠惰に過ごすこともまた、教員という生き物の一側面であった。
——少なくとも、彼らの職場は、民間企業のように、ノルマ未達が即ち収入に直結するような苛烈な環境ではない。
いかなる不祥事があろうと、次の月には給与が振り込まれる。子どもたちの学力が伸びなかろうと、首が飛ぶことはない。試験で点数を取らせなければ生き残れない、そんなギリギリの世界ではない。
なぜなら彼らは、天下の公務員なのだ。
制度の中に組み込まれた歯車であり、歯車であるからこそ、回転を止めても容易に壊れない。
だからこの夏休み、彼らは少しだけ“止まる”ことを許されている。
思考を止める者もいれば、回し続ける者もいる。
それでも、学校は続いていく。そして彼らは、二学期になれば再びそれぞれの役割を担って立つだろう。
今はただ、氷の溶けかけたアイスコーヒーを前に、クッキーを摘みながら。
あるいは、定時の鐘を待ちながら——
「教師という人種」の、ほんの一瞬の静寂が、職員室に滲んでいた。
そんな午後のひととき、エリスは例によってにこにことした笑顔を湛えながら、スターレインのデスクへと歩み寄った。
「ねえ、スターレイン先生」
小さく身を屈めて声をかける。
「新婚旅行に行こうよ」
その言葉に、スターレインは書類からゆっくりと視線を上げた。
無表情のまま、瞬きをひとつ。わずかに首をかしげる。
「……“新婚”というのは、比喩表現でよろしいですか?」
「もちろん」
エリスは楽しげに笑う。
「でも、ほら、それくらいの気持ちで。あなたと一緒にいるのって気楽で、なんか……ね。落ち着くし」
“新婚”という言葉には特別な意味が込められていた。
形式的な愛情表現ではない。
ただ、それほどまでに信頼しているという、彼女なりの親愛の比喩だった。
「まだ行き先は決めてないけどね」
エリスはそう言い添えながら、スターレインの反応を待つ。スターレインは数秒間思案したのち、静かに口を開いた。
「……個人的には、アトラクションも、悪くはありません」
その意外な返答に、エリスは目を瞬かせた。
「え、アトラクション? ちょっと意外かも。てっきり、静かなところが好きなのかと思ってた」
「静かな場所も嫌いではありませんが、騒がしい環境が苦手というわけでもありません」
スターレインは淡々と続ける。
「冒険者として活動していた頃は、祭りの喧噪の中を通過することもありました。職人の時代は、常に鉄と人の音に囲まれていました」
エリスは驚きを含んだまま、頷いた。
「なるほど……じゃあ、賑やかなところも平気なんだ?」
「はい」
即答だった。だが、その声音には押しつけがましさも演技もない。ただ事実を述べているだけのように聞こえる。
「わたしが寡黙なのは、単に性格の問題です。感情表現が希薄なだけで、嗜好そのものは“楽しければ良い”という程度の感性で成立しています」
エリスはそこでふっと口元を緩めた。その笑みには、納得と親しみ、そしてどこかで安堵も混じっていた。
「じゃあ……遊園地でも、テーマパークでも、案外アリかもね」
「場所は問いません。ただし、混雑する時期は避けた方が無難です。導線管理の甘い施設は、消耗の原因になりますので」
その発言に、エリスは思わず笑い声を漏らす。
「さすがスターレイン先生、なんていうか……すごく“らしい”」
ふたりのあいだに、風のような沈黙が流れる。
信頼という言葉を用いるまでもなく、そこには確かな距離感の縮まりがあった。理念も生き方も異なる二人。
だが、一緒にいても疲れないという事実が、何よりの相性の証だった。
やがてエリスは、机の端に自分のスマートフォンを滑らせる。
「……じゃあ、ちょっとだけ調べてみるね。混んでなくて、騒がしすぎず、でも楽しいところ」
「お願いします。わたしは、しばらくこの帳簿をまとめておきます」
そんなやり取りのなか、職員室の窓の外では、蝉の声がひときわ高く鳴いていた。
静けさと、賑やかさと。そのどちらも、きっと悪くはない。
夏は、まだ始まったばかりだった。




