第16話:テスト作成
試験とは、生徒にとっての関門であると同時に、教員にとってもまた、静かな戦場である。
教室の中で日々積み重ねてきた指導が、わずか数十分の答案用紙に集約される。そしてその結果は、教科指導能力という名の数値化された評価として、全教職員と管理職の目にさらされることとなる。学園長や主任といった上位の管理層にとっても、試験結果は教員の力量を端的に測る材料だ。それは日誌でもなく、研修の態度でもなく、比較可能な定量的データとして記録される。
もちろん、クラスごとに生徒の特性は異なり、単純な平均点で優劣を決することはできない。だが、それでもなお、「同じ教科を教える者」としての一定の公平性は求められる。教員はそれぞれ、目標とする平均点を設定し、そのうえで下位・中位・上位の構成比が極端に偏らないよう配慮する。試験直前の補習、理解度の確認、小テストによる定着支援……そうした取り組みはすべて、下位層を中位に引き上げるための地道な積み重ねである。
しかし、どれほど真摯に教室で向き合おうとも、成績が上がるかどうかは、最終的には生徒自身の手に委ねられている。信頼を築けば、教科への関心は高まる。だが、逆に信用を失えば、その教科に対する取り組みは如実に停滞し、成績もまた沈む。教員がどれほど努力しても、「やる気」と「信頼」の二本柱が揺らげば、得点の向上は望めない。
過剰に期待してもいけない。だが、期待を手放すこともまた、教育ではない。
だからこそ、試験問題を作成するという行為は、ただの作業ではない。成績という曖昧な未来像を見据えながら、不確定要素の森を一歩ずつ進む行為である。
信頼はあるか。学びは届いているか。努力は数字に変わるか。
沈黙のなかで試験用紙と向き合うその時間、教員たちの心にもまた、測定される側としての緊張が、静かに脈打っているのだった。
一学期。
スターレインは、自らのクラスに対して試験を作成しなかった。これは意図的な措置であり、教員一年目のこの時期を「吸収のとき」と位置づけていた。
教育とは観察と模倣から始まる。いきなり自己流を持ち込むのではなく、まずは既存の形式に従い、それを咀嚼し、解体し、必要に応じて再構築する——それがスターレインの方針だった。
彼女に与えられた役目は、他の教員が作成した試験問題の確認である。
フォーマットは整っているか。文字の大きさは読みにくくないか。設問の意図は曖昧ではないか。問題数、配点、難易度、そのすべてが生徒の負荷と直結する。
スターレインは、一枚の問題用紙をじっと見つめていた。余白の取り方、設問の順序、句読点の打ち方……細部のすべてが、無言の言語として彼女に語りかけてくる。
その静けさを、背後からの気配が破った。
気づくと、ロレッタがすぐ後ろに立っていた。姿勢を屈め、彼女の視界の端に問題用紙を滑り込ませるように覗き込んでくる。
「この問題用紙には、一つ、明確な改善点がありますね。どこかわかりますか?」
声音は柔らかいが、問いの鋭さは隠されていなかった。
一見すると、形式上の不備は見当たらない。設問の内容も、配点も、取り立てて問題はなさそうだった。だが、スターレインはわずかに視線を動かし、間を置いて答えた。
「……難しすぎるところ、でしょうか?」
「半分正解です」
ロレッタは目を細め、さらなる解説を与えた。
「難易度そのものも問題ですが、序盤にそれを配置していることが危険です。子どもたちは、“飛ばす”という発想を持ちません。つまり、最初に難しい問題でつまずいた場合、その一点で思考が停止してしまい、試験時間いっぱいまで進まなくなることがあるのです」
その言葉に、スターレインは目を細めた。確かに、最初の設問は内容理解よりも記述力が要求される構成であり、全体のバランスを考えれば、後半に回すべき性質の問いである。
ロレッタは言葉を続けた。
「また、表記の統一がなされていませんね。“解きなさい”、“答えよ”、“答えなさい”……表現が微妙に異なります。こうした違いは、子どもにとっては余計な認知負荷になります。些細な点ですが、教育においては“統一性”こそが安心を生むんですよ」
ロレッタの視線はすでに問題文の奥まで届いていた。
「おそらく、この先生は教科書ではなく、ワークブックからそのまま問題を引き抜いてますね。それゆえに語尾が揃っていない。設問文のリズムや論点の深度も、ワークのそれです」
淡々と、けれども容赦なく告げられる分析。
一瞥しただけで、ここまでを読み解き、指摘してみせるロレッタに、スターレインは言いようのない静かな恐怖を覚えた。
彼女の目は、言葉の構造、配列、語調の変化、そして行間にまで届く。
それは単なる経験則ではなく、教育という制度そのものを分析し、精密に再構築する者の視線だった。
彼女の問いかけはいつも、「考えさせる」ためにある。
だが、その問いに誤答すれば、即座に構造ごと“見抜かれてしまう”。
一瞥しただけで、ここまでを読み解き、指摘してみせるロレッタに、スターレインは言いようのない静かな恐怖を覚えた。
だが同時に、脳裏には一つの疑問が浮かんでいた。——なぜ、これほど経験を積んだ教員であっても、こうした些細なミスを見落とすのか。
ロレッタは、その沈黙の背後にある思考を察知したかのように、ふと声を落として語り出した。
「考えられる理由としては、三つです。忙しすぎて気が回らない。気づいているけれど、訂正が面倒でスルーしている。そして、そもそもそういった配慮や知識を“所有していない”。このどれか、あるいは複合ですね」
言葉は淡々としているが、その内容は苛烈だった。
そして彼女は、さらに静かな声音で続ける。
「それともう一つ——四十代を過ぎた教員たちは、基本的に“指摘されること”がなくなります。同僚も後輩も、よほどのことでなければ口を出さない。彼らは沈黙の中で、ただ“指摘されない評価”に晒され続けるんです」
スターレインは無言で耳を傾けていた。
ロレッタの言葉には、組織における“中堅の孤独”が静かに滲んでいた。
「そして、そのときです——」
ロレッタは微かに微笑を浮かべた。
「この人はすごいな、と思ってもらえるのか。
四十代を過ぎても、こんなことにも気づかないのか、と嘲笑されるのか——。
……それを決めるのは、スターレイン先生、あなたです」
その声音には、責めるでもなく、励ますでもなく、ただ選択の自由を与える者の冷静さがあった。
スターレインは問題用紙を見つめたまま、静かに瞬きをひとつ落とした。
正解を言い当てることが目的ではない。
ロレッタの問いは常に、思考を促し、判断を問う。
答えを出す者の“構造”そのものを見抜き、評価する。
そして彼女の問いは、すでに評価される側の自分自身にも向けられていた。




