第15話:郊外研修
初任者研修の一環として実施される郊外研修。それは、スターレインにとって、日々の職務から一時的に解放される数少ない機会であり、「教員として」ではなく「学ぶ者として」の視点を許される、貴重な時間だった。
もちろん、それはあくまで建前のうえに成り立つ一時の自由である。教室を離れること、すなわち自らが担任する学級から物理的にも心理的にも距離を取ることに、彼女は決して無警戒ではいられなかった。だが、郊外研修にはそれを上回る魅力があった。
成熟した教員たちによる講義。制度の根拠、歴史的背景、教育における実践と理論の応答関係。いずれも高密度な知識の集積でありながら、参加者に対しては「完璧な理解」ではなく、「聞き流してもよい」かのような空気すら漂う。いや、実際には一言一句、逃さずに咀嚼すべき内容ばかりなのだが、それでも——その余白の存在こそが、スターレインには心地よかった。
教壇に立つ者は常に、他者の理解と成長に責任を持たされる。だが郊外研修の場では、自らの無理解や未熟さが、一時的にではあるが許容される。それはどこか、かつて自分が「生徒」として学校行事に向き合っていた頃の感覚に似ていた。全体に紛れて歩き、語り、誰かの言葉を聞く。学びは常にそこにあるが、そこに強制も、罰も、伴わない。自由な観察者として振る舞える、数少ない制度的余白。
管理職の多くも、それを理解しているのだろう。「しっかり学んできなさいね」という抽象的な声かけだけが、送り出される際の定型句として存在する。研修報告を厳密に求められるわけでもなければ、行動を逐一監視されるわけでもない。
ロレッタ先生も例外ではなかった。郊外研修について、彼女はほとんど何も言わなかった。無関心なのか、あるいは——意図的に沈黙を選んだのか。その判断はつかない。だが、スターレインは油断していなかった。あの人は、必要なときにだけ問う。「どうだった?」のたった一言で、すべてを測るように。
だからこそ、今はまだ何もないが、すでに心は備えている。郊外研修という緩やかな時間のなかに、スターレインは慎重に、自身の位置を見定めていた。教える側から一歩退いたその場で、彼女は「学びの構造」を、静かに観測し続けているのだった。
また、郊外研修において、決して怠ってはならないものがある。
それは、**業務の引継ぎ**である。
どれほど有意義な研修であろうとも、教員が学校という組織を一時的に離れる以上、自身の不在によって誰かの業務が滞るようでは本末転倒だ。教育現場は、個人で完結する仕事の集合体ではない。連絡、調整、確認。すべてが細い糸のように交差し、教務の網目を形成している。一本が切れれば、日常はたやすく崩れる。
もちろん、学年主任や管理職がカバーに入ることもある。だが、彼らもまた人間だ。全知全能ではない。
実際、研修中の教員の時間割に、**本来設定されてはならない授業が組み込まれている**ことは珍しくない。それに気づき、事前に訂正を申し入れることすら、研修参加者自身の責任なのだ。
この点において、スターレインは際立った能力を発揮していた。
彼女には、過去に建設現場で班長職(職長)として、多数の職人と工程を並列管理した経験がある。資材の搬入、作業の順番、昼休憩の取り方に至るまで、すべてを「誰の手も止めずに進行させる」ことが彼女の信条だった。その経験は、教育現場においても変わらない。
スターレインの引継ぎには、一切の無駄がない。
前日になって急に「明日なんですけど…」と手渡される引継ぎメモ——そうした、初任者によくある稚拙な段取りとは一線を画していた。引継ぎ対象は必ず数日前に文書化され、当日の動線やフォロー担当者の名前、教室・教具の場所まで明記されている。誰が読んでも理解でき、誰が読んでも実行できる。
「前日に伝えられても困るんだけど?」という類の失言を、彼女は職員室で一度も浴びたことがない。
こういった意味では、スターレインは管理職視点で見ると非常に“優しい”教員だった。
自らを律し、他者の手を煩わせず、全体の円滑さを最優先する——その姿勢は、教務組織にとって最も信頼に値する基礎工事である。
――そして、これは余談に属するが、エリス先生は引継ぎがあまり上手ではない。
普段の彼女は、生徒の心に寄り添うことに全力を尽くすが、教務手続に関してはどこか雑だ。郊外研修に限らず、ちょくちょく連絡が取れなくなる。
何の予告もなく職員室からも姿を消し、ふと現れたかと思えば、まるで何事もなかったかのように微笑んでいる。
スターレインは、そんなエリスを非難することはない。ただ、
「またですか」と一言、静かに呟くだけである。
その裏で、彼女は時間割を二重三重に確認し、他の学年教員が困惑してないかを観察している。
もっとも、教員には全員分の時間割が配布されており、授業の見落とし自体はまず起こらない。だが、そこに記載された内容と現実の動きの間に生じる些細な矛盾に気づくのが、エリス先生は少し遅い。それが結果として、ちょっとした混乱を生むことがあるのだった。




