第14話:魔法祭当日
昼休みの職員室。喧騒はなく、どこか焦げたインクの匂いと、冷房の風音だけが漂っている。スターレインは書類の束を脇に抱え、机へ戻ろうとしたところで声をかけられた。
「スターレイン先生、ちょっといい?」
声の主は、同学年・一年二組の担任だった。柔らかい笑顔を浮かべているが、その目はどこか曇りを帯びていた。隣には、もう一人の副担任が立っており、二人ともスターレインに対して軽く会釈をする。
「リレー順の件、ちょっとだけ……気になってる子がいてね」
そう切り出された時点で、スターレインは直感していた。――悪意ではない。ただ、教育者としての“善意”に基づく指摘だ。相手の声色にも、緊張や攻撃的なものは含まれていない。あくまで、気遣いの一環としての助言だった。
彼女たちが名を挙げたのは、確かにスターレインのクラスで“あまり目立たない”存在の一人。脚力に劣るわけではないが、場面によっては緊張で実力を発揮しきれない傾向があった。ましてや学年対抗リレーは、魔法祭の中でも観客が多く、団の士気にも関わる注目の種目だ。
「この子、前にうちのクラスの体育でも、ちょっとそういう傾向があって……。念のため、確認しておいた方がいいかなって」
スターレインは言葉を返さなかった。
ただ、その一言が胸に刺さったことは確かだった。
思い返せば、その生徒のパフォーマンスを、彼女は“平均値”でしか見ていなかった。個人としての特性まで、きちんと評価できていたかと問われれば――答えは、否、である。
内心、静かに反省する。自分の視線が、どこか“構造的なバランス”にばかり傾いていたのではないか。公平に、効率的に――そればかりを優先して、個の輪郭を曖昧に扱っていたのではないか。
だが、そんなスターレインの思考を読み取ったかのように、二組の担任は言葉を継いだ。
「でも、もう決まってるでしょ? だったら……無理に変える必要はないよ。このまま通しても、たぶん問題ない」
それは、スターレインを責めるものではなかった。むしろ、迷いを汲み取ったうえで“現場を任せる”という信頼の示しだった。
変更すべきか。否か。
変えれば、本人の心理的負担は回避できるかもしれない。その一方で、“外された”という印象を与える危険もある。
一方、このまま通せば、当日の失敗がクラス全体の評価に響く可能性もある。
どちらを選んでも、何かしらのリスクは避けられない。正解など存在しない問いが、静かに彼女の中に横たわっていた。
加えて、担任という立場にはもうひとつの責任がある。
――生徒側から「順番を変えたい」と申し出があったとき、それをどう受け止めるのか。
それは、形式的な承諾ではない。“裁量”の問題であり、教育的判断の問われる瞬間でもある。
主体性を尊重すべきか。安定を優先すべきか。子どもたちが自分の役割を再定義しようとするとき、どこまでその声に応えるべきか――答えは一つではない。
そうした思考の余白に、二組担任の副がふと軽口を挟んだ。
「ちなみに私は、変更を申し出されても“面倒だからダメ”って笑って言っちゃう派だけどね」
職員室に、小さな笑いがこぼれる。
ジョークに紛れた本音。しかし、だからこそ救われる瞬間もある。完璧を装わず、すべてを理想のままに導こうとしない姿勢。スターレインは無言のまま、わずかに口元を緩めた。
魔法祭の準備は、思ったよりも滑らかに進行していた。
スターレインにとって不安要素だった全体練習も、いざ始まってみれば、拍子抜けするほど淡々と進んだ。指示系統は明確で、体育科の教員が主導し、場を仕切るのは七年生の担任陣。
一年生の担任としてのスターレインには、ほとんど出番らしい出番はなかった。
彼女に求められるのは、列から逸れそうになる生徒を軽く制したり、言い争いを未然に防いだりといった、ごく軽微な生徒指導だけ。あとは、競技の練習を見守りつつ、必要に応じて控えめに拍手を送る程度だった。
整然と並ぶ生徒たちの背を見つめながら、スターレインはふと、自分の立ち位置を再確認するような感覚を覚えていた。教師として何かを“仕切る”場面が少ない――というより、求められていない。
それは気楽さであると同時に、どこか寂しさにも似た輪郭を帯びていた。
全体練習の終盤、校庭の片隅で指導者たちが円陣のように集まり、今後の流れを確認し合っていた。その中心にいたのが、学年主任だった。五十代の男性で、威圧感はないが、言葉の端々に“伝統”と“格式”を滲ませるベテラン教員だ。
彼の発言には、ある種の一貫性があった。
「この魔法祭は、七年生にとって最後の晴れ舞台です。やはり、彼らのための行事であるという意識は、全教職員が持っておくべきでしょう」
彼はそう言い切るタイプではなかったが、“七年生のために”という言葉は、無意識のうちに繰り返し挟まれていた。それは方針というより、個人の信念に近いものだったのだろう。
スターレインは、黙ってそれを聞いていた。
口にすることはないが、彼女自身は――魔法祭を「誰のためのものか」と明確に位置づけることに、少しだけ違和感を覚えていた。
舞台に立つのは、すべての学年の生徒である。だが、声として語られるのは、いつも“主役”とされる者たちだった。
そんな中、隣に立っていたエリス先生の発言が耳に入った。
「六年生のあの子、去年よりだいぶ声が出ててびっくりした。こうやって代を重ねていくのって、大事よね。下の子たちが“次、自分たちの番だ”って思えるような魔法祭にしたいな」
それは七年生を否定するものではなく、ただ視線の向きを変えた発言だった。
エリスはいつも、誰かと主張が正面からぶつからないよう、絶妙に“ズラす”。
言葉の重なりを避けることで、対立ではなく“網目のような支持構造”を形作るのが、彼女のやり方だった。
示し合わせたわけではない。だが、スターレインにはわかる。エリスは無意識のうちに、学年主任の語りと同じ枠には乗らないよう配慮していた。
その意図を明言することはない。ただ、自分の語る“主語”が誰であるかを、常に慎重に選んでいる。
――それが、徳治主義者としての彼女の“バランス感覚”なのだろう。
スターレインは黙ったまま、ふと遠くを見つめた。
一年生の生徒たちが、赤団の旗のもとで並んでいる。足元はまだおぼつかず、隊列も乱れがち。それでも、懸命に立っていた。
この魔法祭が、彼らにとって“何になるか”はわからない。
だが、誰のための祭かを決めるのは、大人の都合ではなく、生徒たち自身の受け取り方なのだ――スターレインは、そんな考えを胸の奥で静かに抱いていた。
魔法祭は、問題なく――いや、あまりにも順調に幕を閉じた。
事故もなく、トラブルもなく、誰かが派手に泣き崩れることもなければ、劇的な感動に包まれる瞬間もなかった。
だが、だからこそいい。行事とは、常に「何も起きないこと」が最上の成功だと、スターレインは思っていた。
それでも、振り返れば一番面倒だったのは、間違いなくテント設営である。
屋外競技用の仮設テント――魔法の支柱で自動展開といっても、固定具の扱いや配置バランスなど、経験値が物を言う場面が多い。
なにより厄介なのは、慣れていない教員と慣れている教員が混在していることであった。
「手伝いたいけど、勝手に動くのも悪いかな」
「これは入っていい流れ? それとももう割り振り終わってる?」
そんな微妙な空気がテントの周囲に漂い、遠慮と同調圧力と忖度の中で、動き出しの一手がなかなか打てない。スターレインもまたその場にいたが、彼女は作業そのものよりも、「空気の隙間を読むほうが疲れる」と感じていた。
それでも、隣でエリス先生が笑いながら声をかけてきたことが、救いになった。
「これ、ポールは先に立てたほうがいいんだっけ? ああ、違うのか……あはは、昔も間違えたんだよね、これ」
エリスは失敗談を惜しみなく開示することで、場の空気を軽くする技に長けていた。
スターレインはその横で、金具の角度を見ながら黙々と支柱を整え、二人で一つの枠を立ち上げる。まるで、性格も教育観も違う二人が、妙にかみ合う瞬間だった。
「悪くはない」――それが、スターレインの内心の評価だった。
そして、祭が終われば、教員たちはいつものお決まりのように打ち上げに向かう。
会場は学園近くの居酒屋。魔法使いたちの社会でも、こうした場は“慣習”として根強く残っていた。
スターレインは、職人時代に鍛えられたこともあり、こうした集団飲食に特段の抵抗はなかった。
だが、「楽しいか?」と問われれば、答えは沈黙になる。
エリス先生は、いつも通りの明るさで場を回していた。ときおり、スターレインの腕を軽く叩いて笑いながら「ね、聞いた?」と話題を振ってくる。
一方、ロレッタ先生は、普段よりわずかにトーンを緩め、誰にでも優しく微笑んでいた。仮面を外したような、けれど――むしろ仮面を一枚足したような柔らかさだった。
“楽しんでいるように見える”。
だが、彼女たちは仮面の使い方に長けている。
その笑顔の裏に何があるのか、スターレインには推し量る術がなかった。だから、深入りもしない。淡々とビールのグラスを持ち、黙って口を湿らせるだけ。
そのとき、向かいの席にいた別学年の教諭――名前もあやふやな男性が、急に声をかけてきた。
「スターレイン先生って、現場出身なんでしょ? なんか教育観とか、語れるタイプ?」
スターレインは、ビールを口に運びながら、首をかしげるだけにとどめる。
しかし相手は、構わず続けた。
「俺さ、やっぱ“根性”って大事だと思うんだよね。昔、荒れてたクラスで、◯◯叩きつけて黙らせたことあるんだけどさ~」
語られるのは、法的グレーゾーンぎりぎりの武勇伝。
「正義感」で片付けるには無理がある話だったが、周囲の教員たちは「はいはい」「それ、アウトじゃない?(笑)」と流しながら、黙認の笑みを浮かべていた。
スターレインは、その手の話に驚きはなかった。
むしろ、職人時代の現場では“やべー話”など日常茶飯事であり――
その中には命に関わる事故や、倫理的に語れないような現場対応も含まれていた。
本気で勝負を挑めば、圧勝できる自信はある。
だが、それを口にして何になる?
“勝っても、何も残らない戦場”に立つつもりはなかった。
だから彼女は、笑顔の仮面をかぶったまま、静かにビールを飲み干す。
乾いた泡が喉を通り過ぎる音だけが、彼女の返答だった。
――騒がしさの中で、沈黙を保てる者だけが、冷静さを保てる。
それが、スターレインの流儀だった。




