第12話:エリスのぬくもり
日がすっかり落ちた頃、スターレインはエリスの契約するマンションの前にいた。
呼び出されたわけではない。ただ、今日に限っては、誰かの隣で人間らしくいたかった。
そんな彼女の小さな変化を、エリスは昼のうちに感じ取っていたのだろう。下校時、まるで何気ない雑談の延長のように、声をかけてきた。
「今日はうちで、ご飯でも食べていかない?」
扉が開かれると、マンションの一室にはあたたかな光と湯気が満ちていた。
卓上コンロの上では、だしのきいた鍋がふつふつと音を立てている。
白菜、きのこ、豆腐、つみれ。誰もが知っている、ごく普通の鍋。
それが、今のスターレインには、とても贅沢に思えた。
二人は隣同士に座り、菜箸を交互に伸ばしながら、言葉少なに食事を進めていた。
エリスは終始、明るく穏やかな空気を作り続けていたが――
ロレッタの話題には、一言も触れなかった。
それが、スターレインにとっては、逆にありがたかった。
食後、湯気が薄くなった鍋の中をぼんやりと眺めながら、スターレインはそっと口を開いた。
「……わたし、疲れてるんだと思います。きっと、他の先生だったら、もっと上手に……」
その先の言葉を、エリスは待たなかった。
隣から、やさしく肩を引き寄せる。
腕の中にすっぽりと収まるその身体は、かすかに震えていた。
「……自分を追い込みすぎてはいけないよ」
エリスの声は、空気に溶けるように柔らかかった。
「ロレッタ先生の問いを、全部深く考える必要はないの。
時には――無視してもいいの。
あなたが壊れてしまう前に、何かを置いていくことは、悪いことじゃないんだよ」
スターレインは小さく首を振った。
「……でも、それでは、生徒のことをちゃんと考えてない……。
そんなの、教員失格です……」
数秒の沈黙。
そののち、エリスは微笑したまま、抱擁を少しだけきつくした。
「……スターレイン先生。
それを口にできるあなたは、もうとっくに“教員合格”だよ」
その言葉が、どれほど救いになっただろうか。
「生徒のことを“自然と”考えるようになった――それが、あなたがちゃんと“成長してる”証拠。
……私たちはね、慣れちゃったの。
生徒のこと、考えてる“ふり”をしてるだけで、実際には……あまり、考えてないんだよ」
それは、笑って言える自嘲だった。
けれど、スターレインにはそれが、何よりもあたたかく思えた。
気づけば、頬を一筋、涙が伝っていた。
嗚咽ではなかった。
ただ、張り詰めていたものが、静かにほぐれていくような――そんな涙だった。
エリスは何も言わず、ただその肩を支え続けていた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、鍋の銀縁をかすかに反射して揺れていた。
翌朝。まだ空が柔らかく白む時間に、スターレインはエリスと共にマンションを出た。
二人並んで歩く道は静かで、靴音だけが一定のリズムで響く。
特に言葉を交わすでもなく、昨夜のぬくもりをそのまま引き継ぐような穏やかな空気が流れていた。
学校に着いたのは、始業時間の一時間前。
正門を抜けて職員玄関に入る頃には、他の教員たちもちらほらと姿を見せ始めていた。
だが、エリスと一緒に登校してきたことに、誰も特段の関心を示す様子はなかった。
あくまでそれは、“個々の教員がどこから来ようと、何をしていようと、業務に支障がなければどうでもいい”――そんな、空気を読んだ職場的リアリズムの表れだった。
職員室に入っても同じだった。
数名の教員が書類をめくり、パソコンを立ち上げ、授業準備を淡々と進めていた。
スターレインもその流れに自然に溶け込むように、自分の席に向かう。
机の上には、きちんと揃えられた予定表と、会議資料と、朝の会で話す内容のメモ。
手際よく確認を進めるうちに、エリスも席に着き、いつも通りの朝が始まっていく。
ふと、部屋の隅。
コーヒーの紙カップを手にしたロレッタが、静かに視線をこちらに送っていた。
スターレインは一呼吸置き、丁寧に頭を下げる。
「……おはようございます、ロレッタ先生」
「おはようございます」
あの鮮やかな紫色の髪がわずかに揺れる。
そして手元の書類の束から、一枚のファイルをスターレインの前に差し出した。
「これは昨日までの観察で、あなたに必要だと判断したアドバイスの一覧です」
表紙は白く、中央に整ったフォントで《ステップアップ指導要項(第一期)》とだけ書かれている。
「それらの内容で、あなたが“質問したいと思ったものだけ”を聞きに来てください。
全てを完璧に理解しようとは思わなくていい。
あなたにとって“必要だと感じた部分”から、自分の速度で取り入れればよいのです」
言葉には棘もなく、いつになく穏やかな声音だった。
だが、スターレインは、なぜ今その方針に切り替えたのかが読めなかった。
昨日までの“問いかけ型監視”からの突然の変化。それには何か理由があるはずだと考えた。
その内面の逡巡を、ロレッタはまるで見透かしたように、カップを傾けながら微笑む。
「あなたが、教員として一定の成長を見せているからです」
声には感情が乗っていなかったが、そこには確かな評価が込められていた。
「……次のステップに進むべき時期に入りました。
あなたも、毎日毎日、上から“質問”されていたら……子どもたちを“見て考える”余裕がなくなりますよね?」
スターレインは、思わず言葉を失った。
その言葉が、まるで自分の内面にずっと棲みついていた疲労と焦燥を、的確に掘り起こしてみせたからだ。
ロレッタはそれ以上言葉を重ねなかった。
ただ、背筋を正し、コーヒーを飲みながら手帳をめくっている。
スターレインはファイルを両手で受け取り、小さく会釈した。
その背中越しに、朝の光が窓から差し込む。
ふとした瞬間、何かが変わり始めた気がした。
問い詰められる側から、“自分で考えて選び取る”側へ――。
そして、それは決して楽になるわけではないと、彼女は本能的に理解していた。
新年度が始まって、三週間が過ぎた。
生徒たちの中に、明確な“自我”が芽吹き始めていた。
「なんでそれ、やらなきゃいけないんですか」
「別に、今やらなくてもいいでしょ?」
言葉は丁寧だが、態度には従順さが消えていた。
かつて“黄金の一週間”と呼ばれた蜜月の時間は、もはや遠い記憶になっていた。
スターレインは、教室では平静を装いながらも、着実に追い詰められていた。
――どうすれば、クラスは再びまとまるのか。
その問いを胸に、まずは学年主任に相談した。
「指示は繰り返せばいい。何度も、同じように、根気強く」
確かに理屈としては正しいが、それはすでに実践していた方法だった。
次に、1組と2組の担任に話を聞いた。
一組のベテランは「笑って流せばいい」と言った。
二組の中堅は「いったん個別で呼び出して話すべき」と提案した。
エリスは言った。
「“無視された”と感じたのは、あなたが伝え方を間違えた可能性がある。
一方的な命令になっていなかったか、振り返ってみて」
それぞれの助言は理にかなっており、スターレインはノートを分割しながらすべて記録していった。
どれが正しいのかではなく、自分の引き出しを増やすために。
そして、昼の職員室。
全員が忙しなくキーボードを叩くなか、スターレインは静かにロレッタのもとへ向かった。
「……生徒の一部が、私の指示に明確に従わなくなってきました。
これまでに、学年主任、一組と二組の担任、そしてエリス先生に相談しました。
その上で、ロレッタ先生のご意見も伺いたくて……」
ロレッタは一瞬、手を止めた。
紫の瞳がゆっくりとスターレインを見つめる。
「構造的に正しいのは、エリス先生ですね」
それは、即答だった。
「“伝え方”を修正する視点は、他の誰よりも実践的です。
ただし――学級経営の安定を優先するなら、やはり学年主任の方針に従うべきでしょう」
そこで言葉を切り、ロレッタは僅かに首を傾げた。
「……一組と二組の担任の意見を、わざわざ間に挟んだのは……何か意図が?」
「引き出しを増やしておきたくて」と、スターレインは即答した。
迷いはなかった。
だが、その返答を受けたロレッタの笑みは、少しばかり冷たさを帯びていた。
「……あまりやりすぎると、他の先生方から恨まれますよ」
「……え?」
「あなたがやっていることは、一見“熱心”で“理性的”に見えます。
でも、意見を尋ねたうえで、結果的に採用されなかった側から見れば――それは、“自分の助言が無視された”という印象になります」
まるで毒のように、静かに、その言葉は胸に刺さった。
「組織というのは、正しさではなく、“顔”で動く場面も多い。
あなたの今の動き方は、結果として“誰の顔も立てていない”という、構造的な問題を生む可能性があります」
言葉は淡々としていたが、その射抜くような鋭さに、スターレインは思わず息を呑んだ。
ロレッタはそれ以上語らなかった。
ただ、手元の書類を再び見つめ、次の予定を確認するように手帳をめくっていた。
スターレインは、心の中で静かに反芻していた。
――正しさの積み重ねは、必ずしも正義にはならないのだと。




