第11話:震える指先
入学式から一週間が過ぎた。春の陽射しは次第に強さを増し、朝の校舎には柔らかな光が差し込んでいた。
スターレインの教室――一年三組の空気は、他の教室と比べてやや張り詰めていた。整然と並んだ机、掲示物のわずかな歪みさえも整えられ、ゴミひとつ落ちていない床。黒板には前日と寸分違わぬフォントの板書が並び、生徒たちは私語もなく、各自の課題に静かに取り組んでいた。
それは、よく訓練された空間だった。
しかし、スターレインは知っていた。完璧に見えるこの教室を――外から一人だけが観察していることを。
ロレッタは一度たりとも教室に入ってこなかった。ただ、時折。
中庭を横切るふりをして、廊下を歩いているふりをして、ふとしたタイミングで、窓の向こうから教室の内部を“観測”していた。
スターレインはそれに気づいていた。だが、ロレッタは絶対に視線を合わせてこなかった。まるで教師ではなく、研究者のように、生徒と担任を外から記録するような態度だった。
スターレインは、その視線を“警戒”として受け止めていた。
「いつか、来る」と。
その時のために、彼女は一切の油断を排して教室を運営していた。教室掲示の管理、日誌の記録、遅刻者への声掛け、清掃指導。どれも完璧だった。生徒から不満が出ることもなければ、教員同士の連携にも支障はなかった。
だからこそ、ロレッタの声がかかったとき、心のどこかで「来たな」と思った。
職員室の一角、相談室でもなく、廊下でもない――あえて“机の横”という中途半端な場所で、ロレッタは静かに切り出した。
「――あなたは、無意識のうちに“完璧なクラス”を演じようとしていますね」
スターレインの手が、僅かに止まった。ファイルを綴じる手の動きが、ほんの数秒、固まった。
図星だった。
だが、彼女はすぐに応じた。表情は変えず、声も静かに。
「……それは、いけないことなのでしょうか?」
スターレインの返事に、ロレッタは軽く首をかしげた。それは否定でも肯定でもなく、ただ、構造を一つ一つ解きほぐすような口調で続けた。
「他の一年生の教室には、いくつかゴミが落ちていました。でも、あなたのクラスには――ひとつも落ちていませんでした」
その声は平坦だった。誉めているわけではないと、スターレインはすぐに察した。
そして、例の問いが来た。
「――それが、なぜだかわかりますか?」
沈黙が、数秒。
スターレインは思考を回転させ、可能性を探った。
「……担任が、気づいていないからですか?」
ロレッタは首を横に振った。ゆっくりと、だが明確に否定する。
「いいえ。生徒に、拾わせようとしているからです」
スターレインの視線がわずかに揺れた。
ロレッタはそこに迷いなく言葉を重ねる。
「あなたのクラスは、あなたの空間ではありません。生徒全員の空間です。だからこそ――生徒が自分で気づいて、自分で拾わなければ意味がないんです」
静かに、しかし鋭利な刃のように突き立てられる言葉。
「今、あなたがしているのは、成長の芽を摘んでいることです。
たとえ意図がなくても、完璧な空間を保とうとすることで、子どもたちが“気づく権利”を奪っている」
スターレインは口を開かなかった。否定する材料がなかった。
ロレッタは続ける。
「――“黄金の一週間”は、もう終わりました」
それは、確かにそうだった。最初の一週間、生徒たちは教師の指示をよく聞き、騒がず、言われたことに従った。しかし今は――少しずつ、変化が見え始めていた。
「これから、生徒たちは自我を持ち始め、言うことを聞かなくなっていきます。それは自然なことです。だから私は、こう尋ねます」
そして、静かに問われた。
「――あなたは、それでも“全部、一人で対応するつもり”なんですか?」
スターレインは、返答しなかった。
ただ、わずかに目を伏せ、思考を奥へと沈めていった。
午後の授業――闇魔法の時間。
教室には陰翳が差し込み、窓際のカーテンが時折ゆらめくたびに、光と影が床をゆっくりと撫でていた。スターレインはチョークを手に、黒板に淡々と文字を記していた。
「闇属性の魔力は、対象との関係性によって――」
そこまで書いたとき、手元で微かな音がした。
パキン。
チョークが折れた。
黒板の下に、細い白い破片が音もなく転がる。スターレインは自然な動作でしゃがもうとした。
そのときだった。
教室の側面――廊下に面した窓。そのガラス越しに、ひときわ鮮やかな紫の髪が揺れていた。
ロレッタ。
彼女は、教室の中を覗き込むように立っていた。何も言わない。ただ、無表情で、静かに、観察している。
スターレインの手が止まる。思考が、音を立てて回転を始めた。
――チョークを拾うべきか?
これは教師の自然な行動として受け入れられるか?
今、拾えば“生徒に拾わせない”という態度の表明になる?
あるいは、拾わずに進めるべきか?それを生徒が見て“放置してよい”と解釈したら?
思考が、加速しすぎて停止する。
沈黙が、教室を支配した。黒板に向かったまま、スターレインは十秒間動けなかった。
その間、生徒たちは誰も何も言わなかった。ただ“教師の動作の途中”だと受け止めて、視線をじっと向けていた。無言のまま、全員の視線が“次の一手”を待っていた。
やがて、スターレインは僅かに身体を傾け、静かにチョークの破片を拾った。
理由は一つ。「真似されたら困るから」。
教師として正しいことが何かはわからないが、「見られている」ことだけは確かだった。
黒板の前に戻る。チョークを持ち替え、再開しようと口を開く。
しかし、言葉が出てこなかった。
次に話す予定だった内容が、頭からすっぽり抜け落ちていた。
焦燥が、声ではなく呼吸を先に乱す。
喉が乾く。視線が泳ぐ。口を動かそうとするが、舌が追いつかない。
数秒の沈黙。教室は依然として静かだった。生徒たちは、違和感を感じながらも言葉を挟むことなく、教科書を見たり黒板を見たりしていた。
スターレインは、教卓に戻り、教科書をめくる。指先が微かに震えていた。
記憶を頼りに内容を拾い直し、ぎこちなく言葉を繋いでいく。
「……はい。それでは、ええと、魔力の性質と……対象の意識状態によって……」
なんとか授業を続けた。
滑らかさはなかったが、致命的な崩れは避けた。
だが、いつの間にか――窓の外のロレッタは、消えていた。
授業が終わり、職員室に戻ったとき。
ロレッタは既に戻っていた。
スターレインの机から数歩先、同じ学年の副担任と、珍しく笑みを浮かべながら談笑している。
パーカーのフードを少し下げ、頬にかかる髪を払う仕草すら柔らかい。
スターレインが入室したことに気づくと、ロレッタは笑顔のままこちらに視線を向けた。
「おかえりなさい。三組、今日は空調、ちょっと強すぎませんでしたか?」
その声は、あまりに日常的だった。
先ほどの教室での一件――チョークが折れ、思考が止まり、呼吸が乱れたことについては一言も触れない。
それは“スルー”ではなかった。**“あえて踏み込まない観察者の態度”**だった。
スターレインは頷き、無言で席に着いた。
その表情は変わらず静かだったが、指先には、かすかな疲労の痕が残っていた。
放課後。校舎裏にゆるやかな風が通り抜け、陽は傾き始めていた。
グラウンドの隅では部活動の掛け声が響いていたが、スターレインの心には、何一つ届いていなかった。
職員室を出る直前、主幹教諭が静かに声をかけてきた。
「スターレイン先生、今日は早く帰りなさい。キミがいなくても、部活動はちゃんと回るから」
抑揚の少ないその言葉には、スターレインの表情を見慣れている者だけが気づく、“労い”が確かに含まれていた。
第二顧問という立場。
ほとんどの指導は第一顧問が受け持ち、自分は名前だけの存在に近い。
それでも、勤務日である以上は部室に顔を出すべきか――そんな義務感を、今日はようやく手放せた。
「……失礼します」
小さく頭を下げ、職員室を後にする。
学園の正門前に立ったとき、スターレインはようやく小さく息をついた。
視界に入る夕暮れの色すら、今日は少し濁って見える。空気はぬるく、肌にまとわりつくようだった。
鍵を取り出し、バッグの中を探る指がかすかに震える。
すると――後方から軽い足音が駆け寄ってきた。
「スターレイン先生!」
やや息を弾ませながら、金髪が夕日に照らされる。
エリス先生だった。制服のまま、上着だけ軽く羽織っている。
「……どうかしましたか?」
スターレインは眉を僅かに動かしながら問いかける。
こんな時間に、こんな場所で――珍しいと思った。
エリスは満面の笑みで言った。
「一緒に帰ろうと思って」
スターレインは瞬きもせずに返した。
「……あなたは部活動の顧問があるのでは?」
「いまさっき、二時間だけ有休とったから大丈夫」
さらりと、あまりにも自然に。
それが「制度上、何の問題もない」ことをわざわざ強調してくるあたりが、彼女らしい。
スターレインは、言葉を返せなかった。
この一週間、黙って働き続け、ロレッタの影にさらされて、心が鈍く擦り減っていた。
帰り道は、きっと他愛もない話になるのだろう。
それでも、エリスの隣を歩くというだけで、今日一日が少しだけ柔らかく終わる気がした。
「……では、行きましょうか」
わずかに表情を和らげながら、スターレインは歩き出す。
その隣に並んだエリスは、なぜか嬉しそうに笑っていた。
季節の境目。春と夏のあいだ。
二人の影が並んで、緩やかに揺れていた。




