第10話:入学式
入学式が始まるまでの数日間、スターレインは同じ一年生担当の教員たちと共に、教室や掲示物の整備、配布資料の確認、生徒の健康調査票の分類など、次々と舞い込む作業に無言で取り組んでいた。
作業そのものに難しい部分はない。事務的で、整然としており、指示通りに動けば問題は起きない。むしろ、職人だった過去を思えば、釘を一本も打たずに済む世界の方が、よほど気楽だとさえ思えた。
だが、ただ一つ。
――ロレッタの命令を除いては。
彼女の言葉は極めてシンプルだった。
「すべての行動に対して、行動する前に必ず学年主任に伺いなさい。そして、その伺った内容を一言一句、私に報告してください」
命令に含まれるのは二つの義務。「事前確認」と「逐語報告」。どちらも形式的には単純で、従えない理由はなかった。
しかし、問題はその先だった。
報告を終えるたび、ロレッタは必ず言った。
「――なぜ、そういう回答を学年主任はしたと思いますか?」
その問いが、彼女の本質だった。
答えを受け取って終わるのではなく、なぜその答えが出たのかを考えさせる。意味の裏にある意図、判断の構造、経験の深度。それらすべてを、ロレッタは“読み取れ”と暗に命じていた。
たとえば掲示物の配置ひとつをとっても、学年主任は「昨年度と同じ配置でお願いします」とだけ答えた。だがそれに対しロレッタは静かに問う。
「なぜ、昨年と同じ配置にするよう指示したのでしょうか?」
スターレインは答える。形の上では応じる。しかし、答えが正しいかどうかなど、ロレッタは気にしていない。彼女が見ているのは“どこまで思考を深掘りしているか”という一点に限られていた。
「伝統を守ることで混乱を避けたい意図があるのかもしれません」
「その主任は新しいことを嫌う方だと聞きました」
「前任者との比較を避けるためかもしれません」
そんな風に、可能性を列挙する。正解は求められていない。だが、思考の深さは計られている。
スターレインは、自分が日々「評価されている」のではなく、「解析されている」ことに気づいていた。
それが、彼女を少しずつ消耗させていく。
他の教員が和気藹々と作業の段取りを相談している中で、スターレインだけは常に一つの“間”を挟まなければならなかった。「この行動は主任に報告したか」「その報告はロレッタに伝えたか」――その二重の構造が、彼女の行動を寸断する。
だが、それでも彼女は一言も文句を言わなかった。言葉を返せば、ロレッタは“それに対する問い”を返してくることを、彼女はすでに学習していたからだ。
初任者とは、そういうものだ。
スターレインは、自分の色を殺して“白糸”になる訓練を、静かに受け入れていた。
入学式を明日に控えた夕刻、廊下にはまだ春の冷気がわずかに残っていた。教員たちの姿もまばらとなり、校舎の中はゆるやかに静寂を取り戻しつつあった。
スターレインは廊下を進みながら、一枚の紙片を手にしていた。ロレッタ先生の字で短く記された、ひと言の呼び出し。
――「相談室へ」
相談室。それは“生徒の相談”を名目としながら、実際は教員同士の面談や対話の場としても用いられる、半ば“無言の会議室”だった。
彼女が扉を開けた時、室内はわずかに冷えすぎていた。黙って空調パネルに歩み寄り、設定温度を二度上げる。効率的な動作。ためらいのない所作。寒暖差に気づける余裕。それは“教員としてのスキル”ではなく、“現場の経験”が教えたものだった。
空調が静かに稼働を始めたのを確認すると、スターレインは職員室へ向かった。
ロレッタは既に準備を整えていたらしく、無言で頷くと紙のファイルを一つ手に持ち、軽やかな足取りで相談室へと向かった。白と青のパーカーに身を包み、童顔と紫髪のギャップを携えたその後ろ姿は、何度見ても“少女のよう”だった。しかし、扉が閉じた瞬間、空気は変わる。
静かに腰を下ろし、向かい合うと、ロレッタは早々に口を開いた。
「――あなたは、とても優秀ですね」
唐突な言葉だった。だが、言い方に温度はない。ただの事実を述べているだけのような、そんな声音だった。
「冒険者として、あるいは職人としての経験があるからこそ……今のように、空調の調整ができる余裕があるのでしょう」
スターレインは無言で頷いた。誉め言葉として受け取ってはいなかった。ただ、行動を観察され、評価されたことを理解したに過ぎない。
ロレッタは手元のファイルを閉じると、机の上にそっと置いた。続けて、声の調子を少しだけ柔らかくする。
「明日から、入学式ですね」
一拍の間を置き、核心だけを告げる。
「私からのアドバイスは、一つだけです」
スターレインの視線がわずかに動く。ロレッタの瞳は変わらず真っ直ぐだった。
「――子どもは、担任を選べません。……これを、忘れないでください」
その言葉は優しくもあり、冷酷でもあった。担任は選ばれる側ではない。だが、生徒たちは選べないまま、大人の思想と技量と感情に晒される。だからこそ――担任は、その意味を理解した上で立たねばならない。
スターレインは頷いた。小さく、しかし確かに。
その沈黙を、ロレッタがふと、意外な言葉で破った。
「……そういえば、あなたの趣味って何ですか?」
やや砕けた口調。いつもの圧が消えたわけではないが、明らかに空気が緩んでいた。
スターレインは、一瞬だけ返答に迷った。趣味。そういう言葉は久しく口にしていなかった。
「……タバコです。正確にはキセル」
「へえ、渋いですね。火をつけるところから楽しむんでしょう?」
「はい。火加減は、……職人仕事と似ています」
それを聞いて、ロレッタは微かに笑った。いつものような“意味のある問い”ではなかった。ただの雑談のようでいて、どこか“人としての輪郭”を確かめようとするような空気が漂っていた。
スターレインはその微笑を見ながら、ほんの少しだけ、胸の中の緊張が和らいだことを自覚した。
明日、生徒たちは教室に入ってくる。彼女が選ばれたわけではない担任として、そこに座っているのを見つめるだろう。
――選ばれなかったからこそ、選ばれるに値する教師にならなければならない。
そのことを、スターレインは、少しずつ理解しはじめていた。
入学式が始まった頃、講堂には仄暗い光が差し込んでいた。天井から吊るされた白布が揺れもせず、椅子に並んだ保護者と新入生の姿が粛々と整列する。
壇上には、学園長、教頭、そして担当教員たち。スターレインもその中にいたが、するべきことはほとんどなかった。ただ立って、紹介されたときにお辞儀をする。それだけだった。
目立たぬ衣装で、表情も変えず、他の教員と同じように並んで見せた。呼吸は浅くも深くもない。緊張していないわけではなかったが、人前に立つことなど現場では何度も経験している。鉄骨の上で指示を飛ばしていた日々を思えば、講堂の壇上など穏やかなものだった。
一方、七年生の担任であるエリス先生は、式典の進行補佐として裏方に回っていた。鮮やかなトリコロールのローブを揺らしながら、マイクの調整、資料の受け渡し、受付の案内と、流れるような手際で動いていた。
表情は真顔だった。笑みは一切浮かべず、目も口元も硬く締まっている。入学式という晴れの舞台に感情を込めている様子はなかった。だが、その動きに迷いはなく、段取りは一つひとつ確実で、他の教員が振り返る前にエリスはすでに次の動作に入っていた。
彼女にとってこの空間は“祝祭”ではなく“運営”だった。
式が粛々と終わり、生徒たちが教室に戻ると、スターレインは一年三組の担任として、生徒と保護者を迎え入れた。
教室の空気は異様なほど静かだった。前列の机には、緊張と監視の入り混じった視線を放つ保護者たち。後列の生徒たちは硬直した姿勢で椅子に腰掛け、時折、不安げに視線を左右へ泳がせていた。
スターレインは、あらかじめ一組のベテラン教員が行うと聞いていた“学級理念”の文言を、一言一句変えずに口にした。二組の中堅教員の話も参考にはしていたが、今回は採用しなかった。理由は単純だ。ロレッタの言った通り、「コピーせよ」。それが優先されたからだ。
「この学級では、ひとりひとりが責任をもって行動し、互いに尊重し合える関係を目指します。わたしはそのための支援を行いますが、あなたたち自身が自律することが何より大切です」
言葉は保護者に向けたものでありながら、教壇に立つスターレインの視線は生徒に向いていた。声の調子も淡々としていたが、噛んだり詰まったりすることは一切なかった。
すべてが予定通りに進んだ。だが、それは“無事だった”というだけのことだ。
最後の言葉を言い終え、生徒たちを下校させたあと、スターレインは教卓の隅に腰をかけ、深く息を吐いた。誰もいなくなった教室に、空調の微かな風音が響いていた。
その肩は、ほんのわずかに落ちていた。
人前で話すことには慣れているはずだった。だが今日の“話す”は違っていた。相手は保護者であり、自分のことを“信頼すべき他人”として見る、鋭く冷たい視線の持ち主たちだった。生徒たちが無言で机に座り、背筋を正していたその光景も、静かな圧迫として胸に残っている。
ミスはなかった。表情も崩さなかった。だが、予想以上に神経を使っていたことを、終わってから初めて実感した。
彼女は静かに立ち上がり、スカートの裾を整えながら、空の教室を一度だけ振り返った。
明日から、本当の“担任”としての日々が始まる。
スターレインは、何も言わず、ゆっくりと教室の扉を閉じた。
式典の喧騒が消え、夕方の職員室には疲労と空虚さがゆっくりと沈殿していた。生徒も保護者も帰宅し、廊下は静かになっている。スターレインは自席で配布資料の束を整えながら、肩の奥に残る重さと静かに付き合っていた。
すると、机上のメモ用紙に小さな文字が書かれた一枚が滑り込んだ。
――「相談室へ。ロレッタ」
差出人の姿は見えなかった。だが、これが通知であることは明白だった。スターレインは静かに立ち上がり、書類を閉じると、そのまま部屋を出た。
相談室には先客はおらず、空調は既に快適な温度に保たれていた。ほんの少しだけ空気が乾いていて、人工的な匂いが薄く漂っていた。椅子に腰かけて待つこと数分。やがて足音もなくロレッタが入ってくる。いつもの可愛らしいパーカー。童顔の奥に潜む無機質な威圧感。椅子に座ると同時に、彼女は視線を向けた。
「――お疲れさまでした。今日の学活、問題はありませんでしたね」
形式的なねぎらい。スターレインは無言で頷いた。ロレッタは一冊の手帳を開きながら、確認するように言葉を続けた。
「一組の学級理念を採用した理由については……以前、あなたから報告を受けています。構造として妥当でした」
肯定された。しかし、それは前振りでしかない。ロレッタはページをめくる音を止め、視線を上げた。
「……では、二組の学級理念については、どう思いましたか?」
その問いが放たれた瞬間、スターレインの脳が一瞬だけ空白になった。
思考の外にあった。
その一文が、ありありと脳内に浮かび上がる。
そうだ。確認はしていた。二組の担任が話していた理念も聞いた。けれど、それを「今回の採用対象ではない」と判断した瞬間――その内容そのものが、頭から滑り落ちていた。
額の奥から、粘つくような汗が湧いた。背中を伝い、脇を流れ、指先が微かに湿ってくる。
冷静を保つことはできていた。表情も崩していない。けれど、答えは――ない。
沈黙が数秒続いたのち、スターレインは目を伏せて、低く、しかしはっきりと告げた。
「……すいません。……忘れてしまいました」
その声は、小さく震えていたわけではなかったが、どこかに“敗北”の色が滲んでいた。
ロレッタは微動だにしなかった。眉も上げず、視線も動かさない。ただ、数秒の間、スターレインを見つめていた。
やがて、静かに言った。
「……よろしいです。では、次回までに再確認して、今度は“なぜ忘れたのか”も含めて説明してください」
それだけだった。咎めることも、責めることもなかった。ただ、思考の停止を許さない指示が降りた。
スターレインは頷き、視線を少し落としたまま椅子を立った。廊下に出たとき、背中に冷えた汗がしっかりと張り付いているのを感じた。
“覚えておかなければならない”というのは、知識の問題ではなかった。思考の枠の中に、選ばなかったものすら置いておくべきだった――そう、ロレッタは言いたかったのだ。
選択とは、記憶と比較の上に成り立つ。捨てたものの意味を理解せずに採用を語るな。あの問いには、そんな重さがあった。




