第1話:彼女の名はスターレイン
朝靄がうっすらと残る路地裏の石畳を、革靴の踵が静かに打つ。まだ街が目を覚ます前、空には夜の名残が色濃く残っていた。宿屋の窓辺には露がつき、朝の冷気がカーテンの隙間からそっと入り込む。
スターレインはすでに起きていた。旅人用の簡素な寝台には温もりが残り、部屋の片隅では冷めかけた湯が洗面器に揺れている。
大きな姿見の前に立ち、彼女はじっと己を見つめていた。
銀灰色の髪が、まるで月光を織り上げたかのように肩を滑り落ちる。その毛先には、ごく淡く紫が差し込んでおり、見る者の視線をそっと引きつける。髪はほとんど整えていないのに、どこか儀式的な気配を帯びて揺れている。額から頬にかけて垂れる一房が、あまりに自然に配置されていた。
紫水晶のような瞳は、鏡越しにさえ感情の波を映さない。無表情。それでいて、何かを見透かすような静謐な鋭さがある。
肩と胸元を大胆に露出した黒のドレス風衣装。紫のラインが意匠として編み込まれており、露出の多さにもかかわらず神秘的で、軽薄さを一切感じさせない。袖は無く、代わりに肘上まで届く黒のロンググローブを着けている。ベルトが太ももに斜めに巻かれ、紫の装飾布がスカートに重なるように流れていた。
その頭には、花飾りと魔法紋が織り込まれた紫のとんがり帽子。どこか旧式の魔術師を思わせるが、どの時代の流儀とも合致しない。
鏡の中の彼女は美しかった。だがそれは、誰かの恋慕を誘う類のそれではない。まるで石碑や神殿に刻まれる“象徴”のように、ただそこに在るだけで意味を成す、美の形。
スターレインは指先で帽子の縁を整え、何も言わずに振り返った。
窓の外では、パン屋が釜の火を起こしていた。小鳥が目覚めの声をあげ、街は少しずつ、いつもの喧噪に向かって準備を始める。
彼女は杖を手に取り、宿屋の扉を開いた。
通りに出ると、濃い紫の影が石畳に落ちた。まだ薄暗い朝の空の下、通りすがりの人々が、ほんの一瞬だけ彼女に目を止める。
「あ……スターレインさん……」
目を合わせれば、彼女は何も言わない。ただ帽子の縁に触れるだけで、静かに挨拶の意を示す。それだけで十分だった。彼女が何者であるか、この街の誰もが知っていた。
冒険者ギルドが開くのは、日の出から一刻後だ。だがスターレインは、常にその前に依頼掲示板を見に来る。他の冒険者たちが朝食を取っている間、彼女はすでに戦う準備を整えているのだ。
ギルドの扉はまだ閉ざされていた。だが掲示板だけは、外壁に設置されている。
依頼が、いくつも貼られている。討伐、護衛、採取、探索——中でも目を引くのは、南方の山中に出現した「飛竜級魔獣」の緊急討伐依頼。通常であれば、A級以上のパーティを組んで挑むべき危険案件。
スターレインは、その一枚に指を添え、じっと見る。何も言わずに、魔獣の絵と報酬、必要戦力を読み取り、そのまま手を離した。
そのまま歩き出す。すでに決まっているのだ。依頼を請けるのではない。ただ、倒しに行くだけ。
街に光が差し始める頃、彼女の後ろ姿はすでに、霧の中へと溶けていた。
昼を少し過ぎた頃、スターレインは現地へとたどり着いた。
南方の山裾は、湿った風と高温のせいで濃密な熱気が漂い、草いきれが重たく肌にまとわりついてくる。空は晴れ、雲が高く、竜の影が一瞬だけ大地をかすめた。
飛竜。
灰色の鱗を持ち、音速に迫る飛翔と炎の吐息で幾度も村落を焼き払った凶獣。A級複数名のパーティでも全滅の報告が上がっている。
だが、スターレインは独りだった。補助役も、索敵もいない。地図も使わず、情報屋の一言を手がかりに獣道を進み、竜の気配を感知して一直線に歩く。
「……この先、三百。風の匂い」
誰に告げるでもなく、ただ呟いて足を止める。
紫の瞳が、山肌に開いた岩の裂け目を見据えた。
その刹那だった。
――ギャアアアアッッ!!!
飛竜が吠え、空を裂いた。翼の羽ばたきが木々を吹き飛ばし、灼熱の炎が咆哮とともに空中を這う。スターレインは一歩も引かず、地に杖を立てた。
空気が振るえ、魔力が大気を撓ませる。彼女の周囲に紫の魔法陣が現れ、それは回転しながら上昇していく。空を裂く呪文は、ただ一言。
「エクスプロージョン」
音が消えた。風も止んだ。
そして——
爆裂。
その瞬間、大地がうねり、空が燃えた。
紫と白の閃光が重なり、飛竜の存在がまるごと爆風に飲まれる。雷鳴を濁したような轟音が山を揺らし、焼けた鱗が空を舞う。
視界が晴れたとき、そこに飛竜の姿はなかった。
ただ黒く焦げた地面と、静かに立つ魔導士の姿だけがあった。
後方の崖に待機していた別パーティの冒険者たちは、全員がその光景に息を呑んでいた。
「……あれ、一発で、飛竜が……」
「見たか……? あの詠唱なしの爆裂魔法……」
「うそでしょ……いや、うそじゃない、だって……」
目を見開いたまま、誰もが言葉を失っていた。
だがそれ以上に、彼らの心を奪ったのは、その魔法の威力ではない。
爆炎の向こうに、風を纏って立つ少女——
その姿は、まるで神殿の彫像のように神秘的で、儀式的で、あまりに美しかった。
紫のとんがり帽子。肩の露出したドレス。紫水晶の瞳に、一切の感情は浮かんでいない。だが、その無表情こそが、逆説的に美の極地に近かった。
「……こんな人が、パーティにいてくれたらな……」
「もったいないよ……ソロ専門なんて……」
「声かけたいけど……絶対、無理だよな……」
誰もがそう思い、誰も声をかけられなかった。
スターレインは、誰とも目を合わせることなくその場を去った。
すでに、戦いは終わっていた。
—
日が暮れる頃、スターレインは静かに部屋へと戻っていた。
靴を脱ぎ、杖を壁に立てかけると、何も言わずに冷蔵庫を開けた。中から、一本の缶ビールを取り出す。銀色のラベルに、うっすら水滴が浮かんでいる。
プシュッという音が、室内にやけに心地よく響いた。
スターレインは無言のまま椅子に腰掛け、ビールを口に運んだ。
炭酸の微かな刺激が、喉を通って静かに腹に落ちていく。
窓の外では、遠くから祭りの太鼓が響いていた。
誰かが笑い、誰かが騒ぎ、誰かが誰かと過ごす夜。
だが彼女は独りだった。
それを寂しいとは思わない。ただ、そういうものだと思っている。
飲みかけの缶を傾けながら、スターレインは窓の向こうを眺めていた。
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