第9話:特任指導教諭
職員会議が終わった教室には、冷えた水のような静けさが満ちていた。夏の始まりを告げる風が、開け放たれた窓からカーテンをゆらりと揺らしている。
その中で、スターレインはひとり、配布された資料を無言で見つめていた。ページの上に印字された文字――「校務分掌」の項。そこには、自分の名前が淡々と記され、その下に『教育相談』と書かれていた。
眉根が、ほんのわずかに寄る。
感情を表に出さない彼女の顔にしては、珍しい反応だった。教育相談。つまり、生徒の内面や家庭の問題に寄り添い、支援をする窓口。それはスターレインのように「干渉を最小限に保ちたい」と考える教員にとって、最も避けたい分掌の一つである。
しかし、彼女の視線は次の瞬間、その自分の名前のすぐ真下に記されたもう一人の名前を捉えた。
――エリス。
その瞬間、寄っていた眉が、わずかに緩んだ。
共感と感情で人を動かすタイプの彼女は、スターレインとは真逆の教育観を持っていたが、時間が経つにつれて、その違いはむしろ「共存可能な構造」として彼女の中で整理されていった。
エリスが自分に干渉しすぎないこと、そして“優秀なものは肯定する”という価値基準を明言していたことは、スターレインにとって許容可能な関係性を築く一因となっていた。
資料を伏せると、すぐにドアがノックされた。落ち着いた所作でスターレインが立ち上がると、扉の向こうから、ひとりの女性が現れた。
――ロレッタ、と名乗ったその人物は、教育委員会から派遣された特任指導教諭であった。
「こんにちは。あなたがスターレイン先生ですね? 本日より一年間、初任者研修の指導を担当することになりました、ロレッタです。どうぞよろしくお願いします」
品のある声だった。紺のスーツに身を包み、書類鞄を片手にした姿は、魔法使いというより教育官僚に近い雰囲気を漂わせている。
スターレインは一礼し、静かに応じた。
「わたしで、間違いありません。ご挨拶、ありがとうございます。……研修のことも、承知しています」
「さすがですね。事務処理も早くて助かります。それと、担任についての説明はもう受けましたか?」
「はい。……一年生の担任、ということでした」
言葉に熱はなく、表情も変わらない。ただ、内心ではうっすらとした疲労感が生まれつつあった。担任業務。教務以外の仕事で、最も“余計な人間関係”が増えるポジションだ。
それでも、教育相談の欄にエリスの名前がある限り、大きく破綻することはないだろう。
スターレインはそのように、冷静に、現実的に、自分の一年を予測していた。
ロレッタは窓際の椅子に腰を下ろすと、書類の束を机の上に静かに置いた。書類に目を通す気配はない。スターレインの方をまっすぐに見据えたまま、穏やかながらも芯のある声で語り始めた。
「――教諭になってからの三年間は、自我を出してはなりません」
唐突でありながら、よく研ぎ澄まされた刃のような言葉だった。
「特に一年目。これはあなたに限った話ではありません。いかに講師として優秀であっても、制度上、そして組織上の“新人”である以上、あなたに期待されているのは“学び手”としての姿勢です」
スターレインは無表情のまま頷いた。だが、その瞳の奥には、かすかな違和感の色が浮かんでいた。
「今年度の一年生は三クラス編成です。あなたは三組の担任ですね。……一組、二組の担任は、すでに数年の経験を積んだ先輩方です。あなたがなすべきは、彼女たちの動きを観察し、コピーすることです」
コピー、という言葉にわずかに反応して、スターレインのまばたきが早くなった。ロレッタはその変化を見逃さなかった。
「――たとえ、そのやり方があなたと“合わない”と感じたとしても、それを実行するのが、今年度のあなたの役目です」
彼女の声は冷たくはない。しかし、そこには容赦という概念が存在していなかった。
スターレインは静かに呼吸を整えた。これまでの職場でも、指示には忠実に従ってきた。現場のルールを破らない。それが生存の知恵だった。しかし、「合わないと感じた場合でもコピーせよ」という要求は、教育における創造性や自由を根本から否定するように聞こえる。
そんな内心を見透かすように、ロレッタは次の言葉を重ねる。
「教育に、正解はありません」
スターレインの視線がわずかに揺れた。
「たとえば、あなたが講師時代にお世話になったと、学園長から聞いておりますが……エリス先生。彼女は優秀な教諭です。共感力があり、生徒からの信頼も厚い。けれど、感情的になりやすいという欠点を抱えています」
スターレインは、ほんの少しだけ視線を落とした。誰よりも知っている事実だった。エリスは、時に生徒の涙に付き合いすぎる。それを強さとも、脆さとも言えなかった。
「優れた教員であっても、何かしらの弱点を持ちます。それを表で見せるか、内面に隠すかの違いだけ。あなたがこの一年で学ぶべきことは、そういった“人としての凹み”を観察し、かみ砕いて、自分自身の教師像へと落とし込んでいくことです」
ロレッタは一拍置いてから、さらに一歩、踏み込んだ。
「あなたは講師経験があります。白糸ではありません。……けれど、白糸からのスタートではないことが、必ずしも有利とは限りません。白でなければ、色を吸収することができないのです」
スターレインの眉が、再びわずかに動いた。反論したいわけではない。ただ、受け入れがたいほどに、ロレッタの言葉は本質を突いていた。
沈黙が、しばらく続いた。
ロレッタはそれを乱さず、最後にひとこと、柔らかく添えた。
「あなたの色は、美しいと思いますよ。だからこそ、無理に染まろうとせず、まずは他人の色を吸い取ってからでも遅くはない。――それが、“初任者”という特権です」
その言葉に、スターレインは微かに、そして確かに頷いた。
ロレッタは静かに指を組んだまま、ふいに言った。
「……あなたは、学園長のことをどう思っていますか?」
それは一見、ただの雑談のような問いだった。だがスターレインは、瞬時にそれが“設問”であることを理解した。沈黙。空調の風がページを一枚だけ、かすかにめくる音がした。
スターレインは答えを選ぶのに時間を要したわけではない。ただ――選んだ言葉が本当に最適か、頭の中で何度も焼き直していた。
学園長。行政経験者の天下り。学校改革を掲げているが、その実、教員の負担は増加の一途をたどり、精神疾患で辞職する職員も後を絶たない。スターレイン自身もその“無理筋な改革”の煽りを受けたひとりだった。
だが、それを正直に口にするのは愚かだ。ロレッタの問いが試金石であることは明らかだった。
「……よく、現場を見ておられる方だと感じます。改善すべき点を、逐次把握されているのではないでしょうか」
スターレインは抑揚なく答えた。模範的な回答だった。嘘ではない。真実でもない。感情を排した言葉の中に、相手が汲むべきものは何も含まれていない。
だが、その答えが終わるや否や、ロレッタの瞳が細くなった。
「――あなたのその答えに、“子どもの未来を良くしていこう”という意志は込められていますか?」
スターレインの呼吸が、少しだけ止まった。言葉が、出てこない。
未来。教育。改善。制度。そして子ども。
どれも彼女があえて距離を置いてきた言葉だった。講師として働いていた頃から、スターレインは一貫して“良き教師”になろうとしたことはない。教えるべき内容を的確に教え、問題を起こさず、干渉しない。それで十分だと考えていた。
ロレッタは、机の上に置いた自分の両手を、そっと組み替えた。そして淡々と、しかし明確に告げた。
「あなたは、組織に寄り添うことは得意でしょう。しかし、生徒に寄り添うことは……苦手ですね」
スターレインのまばたきが一度、早まる。
「私はこう思います。生徒に寄り添う感情がない者に、教諭を続ける資格はない」
空気が、落ちる。問いではない。それは、声明に近かった。けれどロレッタはさらにその言葉を問いへと変化させる。
「――あなたは、どう思いますか?」
静寂が、長く続いた。スターレインは答えない。ただ、何かを探しているように、自分の中に言葉を探していた。
“資格”という言葉が引っかかった。“感情”という基準が、現実を上書きしようとしてくる。彼女は、生徒の心に寄り添ったことがあっただろうか。教室で涙を流す生徒に、手を差し伸べたことがあっただろうか。
――たぶん、ない。
でも、それは悪いことなのだろうか。
口に出せば、何かが終わる気がして。口に出さなければ、何かが始まらない気もして。
彼女はただ、黙っていた。




