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第8話:春来たる星霜

 魔導列車が山間の終点駅に滑り込んだのは、午後もすっかり傾き始めた頃だった。


 濃い緑に包まれたホームには、出迎えもなく、喧噪もなかった。ひんやりとした風が一陣、乗降口を吹き抜ける。遠くからは川のせせらぎだけが聞こえてきていた。


 スターレインは一歩、列車を降りたあと、そっと振り返った。エリスは荷物を手に持ちながら、周囲を見回していたが、やがてその表情に不思議そうな色を浮かべた。


「……あれ?」


 と、小首をかしげる。


「ねぇ、スターレイン先生。お祭り、どこでやってるの?……わたし、この村の“星祭り”って、すごく有名だって聞いてて……夜には提灯が並んで、踊り子さんが道を練り歩くって……」


 言いながら、駅前の小道を見回す。だが、そこには祭囃子のひとつもなく、屋台の準備すら見られなかった。干された大根と麦の束が風に揺れているだけだった。


 スターレインは数秒の間を置いてから、言った。


「……“星祭り”は、秋の祭礼です。この村の暦では、収穫月の第三金曜日……今は、まだ初夏です」


 エリスの顔から一気に色が消えた。


「……うそ、でしょ……」


 肩が落ちる。視線が彷徨い、足元を見つめたまま立ち尽くす。


 スターレインは静かに息を吐くと、荷物を持ち直し、数歩だけ先を歩いた。細い砂利道の先に、宿の看板が小さく揺れていた。


 やがてエリスも、とぼとぼと後をついてきた。その後ろ姿は、普段の輝かしい教壇の姿とは別人のようだった。


(……教員でなければ、この人はたぶん、“ポンコツな大人”なのかもしれない)


 スターレインは、そんな思いをふと抱く。


 教員採用試験に三年かかったこと。給与明細に涙ぐんでいた過去。頑張り屋だが、決して“地頭が良い”とは言えない姿勢。


 それでも教室では誰よりも堂々としていたのは、彼女が「先生」という職業においてのみ、自分の価値を証明し続けてきたからだろう。


(……この人は、“優秀さ”を努力で積み上げてる)


 そう思うと、落ち込む背中すらも、どこかいじらしく思えた。


 宿の玄関先で、スターレインはそっと扉を開け、エリスの方へ向き直った。


「……せっかく来たのですから、一泊していきましょう。祭りがないからといって、旅が台無しになるわけではありません」


 エリスは、半分泣きそうな顔で笑った。


「……そう、だね。ほんと、わたしって……」


 と、そこで言葉を切る。


「でも……たまには、スターレイン先生と旅できたってことだけでも、いい思い出にするよ」


 その言葉に、スターレインは小さくうなずいた。


 季節外れの村に、夏の風が静かに流れていた。計画は間違っていた。だが、それでも“間違った旅”には、意外な温かさが残っていた。


 日の傾いた村の小道を歩いていくと、木製の看板が風に揺れ、軒先の暖簾がふわりと浮いた。白地に黒で「食堂」とだけ書かれたその布をくぐると、中は意外にも活気があった。


 年季の入った椅子とテーブル。壁には手描きの短冊メニューが並び、角の棚には地酒の瓶がずらりと並ぶ。数人の地元客が、静かに酒を酌み交わしていた。


「いらっしゃいませ」


 店主らしき男が手ぬぐいを首にかけたまま現れた。灰混じりの髪に、皿洗いの水音が似合うような落ち着いた佇まいだった。


「旅人かい?そりゃあ歓迎だ。ほら、あそこの窓際、空いてるから」


 勧められるまま席につくと、店主が水と湯気立つおしぼりを持ってきた。


「名所ですか?そうだな……こっから南へ三十分くらい歩いたとこに、古城の跡がある。三百年前の戦で落ちた城だけど、石垣が残ってて、夕暮れにはいい写真が撮れるって、最近の子はよく来るよ」


 素朴な味噌汁と山菜の定食を口に運びながら、エリスは目を輝かせた。


「明日……行ってみようか」


「ええ。今日は宿で休みましょう」


 二人は店主に礼を述べ、勘定を済ませて食堂を出た。


 宿屋は駅前通りにある、二階建ての木造建築だった。軒先には鉢植えの花が並び、入口には「空室あり」の木札が掛けられていた。


 だが、玄関をくぐった瞬間——


「……うっ」


 エリスが、表情を曇らせた。鼻を押さえる仕草。何かに耐えるような目。


 宿の中は、うっすらとしたタバコの匂いに包まれていた。旧式の石油ストーブ、絨毯に染みついた空気、そして——換気のされていない、長年の“滞留”。


 スターレインは一歩進み、天井を見上げた。


「おそらく、ダクトがこの部屋の気圧を調整しきれていないのでしょう。構造上、厨房と居室の間に遮断機能がなく——」


「不正解」


 唐突に、エリスの声が遮った。スターレインが視線を落とすと、エリスは肩を落としたまま、ぽつりと言った。


「……わたしは、“匂いの理由”を聞いてるわけじゃなくて、“この匂いが嫌だ”って気持ちに、共感してほしかったの」


 その顔は、いつもの教壇での表情でもなければ、旅の期待に満ちたものでもなかった。


 スターレインは小さく目を伏せた。


 ——難しいものだ、と心の中で呟く。


 論理で構造を理解することと、人の感情に寄り添うことは、別の次元にある。理屈ではなく、ただ「わかるよ」と言ってもらいたい瞬間が、人にはある。


(……乙女心は、難解です)


 スターレインは、無言のままフロントへ進み、チェックインの手続きを終えた。部屋は隣同士だった。


「明日の古城……空気が澄んでいるといいですね」


 そう言うと、エリスはようやく顔を上げ、少しだけ笑った。


 すれ違いのあとの小さな修復。その一瞬が、旅路の続きへと繋がっていく気がした。


 夜の帳が降りた頃、二人は静かな寝室に戻っていた。木の軋む音と、遠くからかすかに聞こえる虫の声が、山間の村の静けさを伝えていた。


 室内には、確かにまだ微かにタバコの匂いが残っていた。エリスはベッドの脇に立つと、両手を胸元で合わせ、低く呟いた。


「《浄化ピュリファイ》」


 ふわり、と空気が揺れる。淡く白い光が床を這い、壁を撫で、やがて空間そのものを優しく洗い上げるように消えていった。匂いはすっと引き、残ったのは木の香りと布団の糊の匂いだけだった。


「……これで、ようやく“泊まる気分”になったかも」


 そう言って、エリスは片方のベッドに腰を下ろす。髪を片手で払いながら、もう片方の手でスターレインの袖を引いた。


「ねえ、今日は色々あったね」


「ええ。まさか“反社会組織の人質”から、“地元の食堂”まで体験できるとは思いませんでした」


「ふふ、それはわたしのおかげだよ?……って、言いたいところだけど」


 エリスはいたずらっぽく笑いながら、スターレインの隣に身を寄せた。スターレインは表情を変えず、軽く身じろぎする。


「……少し距離が近すぎます」


「でも、わたし達、価値観が違うのに……こうしてると、落ち着くよね。不思議だなって思わない?」


「……そう、ですね」


 スターレインはわずかに視線を落とした。火を持たない目は静かに光を返し、彼女の脳裏には自然と一つの結論が浮かぶ。


(……彼女は、“受容”の力を持っている)


 自分と違う者、自分とぶつかる思想、自分と異なるやり方——そうしたすべてに、エリスは明確な線を引くことなく接する。


 それは徳治主義の本質であり、彼女が生徒に対して日常的に発揮しているものだ。そして、いま——その“懐の広さ”が、自分との会話を成り立たせているのだと、スターレインは理解していた。


「あなたは、誰にでも会話を繋げる力を持っている。……それが、徳治主義の教師というものなのですね」


「ふふ、そうかも。でもそれ、あなたがそう思ってくれたなら、それだけでちょっと嬉しいな」


 そう言いながら、エリスはすっと立ち上がった。


「じゃあ、温泉行こっか。……スターレイン先生、先に入る?それとも一緒に?」


「分けて入りましょう。湯の温度管理が面倒ですから」


「もう〜、そういうとこ真面目すぎるんだってば」


 そんなやり取りのあと、二人は交代で宿屋の小さな温泉へと足を運び、村の夜に温かな疲労を流していった。




 ──就寝の時刻。


 灯りが落とされた部屋に、二つのベッドが並んでいる。スターレインは淡々と片方に横たわり、銀の髪を枕に散らして目を閉じる。


 しかし次の瞬間、マットレスがしなり、布団の隙間からふわりと柔らかな気配が忍び込んだ。


「……別のベッドが空いているはずです」


「うん、でも。あっちはちょっと冷たい。布団がね、たぶん湿気てる」


「湿気……?」


「そう。だからこっち。こっちのほうが……あったかい」


 スターレインは一瞬だけ黙り込んだが、無理に突き放すこともなく、そのまま目を閉じ直した。


 背中越しに感じるエリスの呼吸は穏やかで、彼女が完全に気を許していることを示していた。


(……向いていない、と言われましたが)


(こうして求められているなら、悪くはないのかもしれません)


 部屋に響くのは、外の風と、二人の静かな寝息だけだった。


 教員と冒険者、法と徳、正反対の生き方が、今夜だけは一つの布団の中で、同じ夢の温度を分かち合っていた。




 春の始まりを告げる柔らかな風が、フラワーリング魔法学園の中庭をすり抜けていた。だが、職員会議室の空気は、その陽気とは対照的に重たかった。


 長机に並ぶ教員たちの顔ぶれ。その中で、ひときわ分かりやすく疲労を滲ませているのは、三年生担任のエリスだった。


 金髪を乱さぬよう適当にまとめ、トリコロールカラーの服の上に羽織った教員ローブの前を留めもせず、椅子にやや崩れるように腰を下ろしている。目元にはうっすらと影が差し、口元には笑みどころか覇気もない。


「七年担任……七年担任かあ……」


 彼女の呟きは、近くにいた教務主任の耳にだけ届いた。


 七年生。すなわちこの学園の最終学年であり、卒業と進学を見据えた進路指導が、否応なく担任に重くのしかかる学年だ。


 徳治主義を掲げているとはいえ、受験に感情は通じない。数字と実績でしか評価されないその現実を、エリスは誰よりも理解していた。


 そのうえで、やる気が出ない。


(今年は……楽な学年がよかったのになあ……)


 そんな本音を隠すように、エリスはペンを指先で弄びながら、会議の冒頭に耳を傾けていた。


 やがて、壇上に立った学園長が告げる。


「本年度より、新任の教諭が着任いたします。では、スターレイン教諭、どうぞ」


 その名が発せられた瞬間、エリスのペンが手から滑り落ちた。


 そして——その人物が、ゆっくりと会議室へと入ってくる。


 全身が、静寂のような存在感に包まれていた。


 銀灰色の長髪は光を受けて仄かに紫を帯び、風がないのにふわりと揺れる。目は紫水晶のように透き通っており、その奥には淡く、観測者のような冷静さが宿っていた。肩と鎖骨のラインがあらわになったドレス風の上衣に、黒と紫の不規則なスカート。装飾を控えた長杖が、彼女が魔導職であることを静かに示している。


 だが、装飾の派手さよりも——そこに立つだけで空気が変わる、その“異質な沈黙”こそが、スターレインという存在の本質だった。


 彼女は一礼し、特段何も語らず、指定された席へと歩みを進める。


 その一歩ごとに、他の教員たちは目を奪われていた。だが、エリスだけは違った。


 目を奪われるというより——心を撃たれた。


「…………」


 スターレインの視線が、ゆっくりとエリスの方へ向けられる。


 不思議なことに、その鋭い目には冷たさがなかった。むしろ——微かな、柔らかなものがあった。


 エリスもまた、無言で頷き返す。


 口元に、自然と笑みが浮かんでいた。


 頬が、熱を帯びていた。


(……ほんと、あいかわらず……)


 いつもの美貌。いつもの距離感。そして、どこまでも律儀に、契約通りに職務を果たすその生き方。


 ——スターレインは、教職に戻ってきた。


 ただそれだけの事実に、エリスの中に沈んでいた倦怠が、少しだけ晴れていくのを感じていた。


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