第4話:警告
フラワーリング魔法学園の非常勤講師は、教員でありながら「教育権限の輪郭」に制限を設けられた立場である。
学級担任を持たず、生徒の家庭との連絡も基本的には主任教諭を通す。
進路相談や懲戒処分にも関与しない。
教えることに特化した職能者——それが、制度上の“非常勤”の位置付けだった。
スターレインもまた、その立場にある。
だが、制度とは関係なく、生徒たちは日々の中で動く。
ルール違反も、突発行動も、教科書の余白のように当然に起きる。
そして、その場にいた大人が非常勤かどうかなど、生徒は気にしない。
ある日の放課後、廊下の突き当たり。
物陰に隠れて魔法煙草を吸おうとしていた男子生徒二人を、スターレインは偶然発見した。
彼女は声を荒げることもなく、ただ足を止め、静かに口を開いた。
「……吸う前でよかったですね」
生徒たちは一瞬固まり、言い訳も出てこないまま黙りこくる。
「事情を聞いてもよろしいですか?」
どこか不思議そうに尋ねる口調だった。
怒気も、軽蔑も、同情もない。ただ“話を聞くこと”だけが目的の声音。
しばしの沈黙のあと、片方の生徒がぽつりと呟く。
「……兄貴がこういうの吸っててさ、真似しただけ……」
スターレインは頷いた。叱りも否定もしない。
「真似をするのは、自然なことです。ですが……ここは学園です。
学園には、学園のルールがあります」
それだけを静かに伝えた。
「わたしにできるのは、ここまでです。……この件は、担当の先生に報告させていただきます」
二人は、驚いたように顔を上げた。
怒られると思っていた。責められると思っていた。
だが、彼女は“罰”を与える権限を持たず、“罰”を望んでもいなかった。
その日の夕刻、職員室の隅で、スターレインはエリスに簡潔に報告を行った。
「……魔法煙草を所持した生徒が二名。吸引は未遂。名簿に記録しました。
今後の対応をお任せします」
エリスは頷きながら、生徒名を確認する。
その表情は柔らかくも、目には一切の迷いがなかった。
「ありがとう。報告してくれて助かったわ。
あの子たちね、実は最近ちょっと不安定だったの。……私の方で、きちんと話しておく」
スターレインは、その言葉に深く立ち入らない。
それは自分の役割ではなく、越権でもあったからだ。
非常勤講師である以上、自らが“踏み込むべきでない線”を、彼女は常に意識している。
保護者への連絡も、生活指導の介入も、彼女が行うことはない。
気になったことはエリスや主任教諭に報告し、適切な対応を委ねる。
その姿勢は、傍目には冷たく見えるかもしれない。
だがそれは、“非常勤という立場を正確に理解し、逸脱しないための配慮”でもあった。
翌日、その二人の生徒は、エリスに呼び出され、柔らかな叱責と長い対話の時間を過ごすことになる。
その帰り道、彼らはスターレインの授業に、今までよりも少し真剣に向き合うようになっていた。
資料室での記録作業を終え、スターレインが静かにファイルを閉じた頃。
背後のドアが、遠慮のない音を立てて開いた。
「——スターレイン先生、少しお時間をいただけますか」
現れたのは、五年生の学年主任だった。
紺の長衣に銀の肩章。きっちりと結ばれた襟元と、靴音の響きが性格を物語っている。
この学年全体を統括し、教員配置と教育方針を決定する、いわば“現場の統治者”。
スターレインは一瞬だけ動きを止め、それから無言で軽く会釈した。
既に“何の件か”は察していた。
案内されたのは校舎棟一階、管理系の教員しか使わない面談室。
昼休み直後の静まり返った時間帯。生徒の出入りはなく、外からの視線も届かない。
主任は席に着くなり、資料も出さずに語り始めた。
「……先日、B組の生徒が魔法煙草の所持で呼び出された件について、確認です。
最初に報告した相手が、なぜ私ではなく、他学年のエリス先生だったのか。理由を伺えますか?」
言葉は丁寧だったが、空気は既に問い詰めに近かった。
これは「情報伝達の経緯」ではなく、「越権行為に対する処理」の空気だ。
スターレインは、ほんの短い沈黙ののち、ゆっくりと視線を落とした。
(……“相談しやすかったから”と答えたら、たぶん激昂される)
エリス先生は三年生担当でありながらも、問題の生徒についての動き方をすぐに助言してくれた。
それだけのこと——だが、この場では「たまたま」や「気楽に」などという言葉は、禁句に近い。
「……申し訳ありません。主任のご指摘のとおりです。
今後、該当学年の事案については、まず主任に報告するよう徹底いたします」
スターレインは、頭を下げた。
余計な言葉は添えず、誤解も否定せず、ただ“非を認める”という構えだけを選んだ。
主任はしばらく黙っていたが、それ以上の追及はせず、やがて小さく咳払いを一つして席を立った。
「非常勤であっても、組織の一員である以上、報連相は義務です。よろしくお願いします」
それは、形式に基づく“忠告”というよりも、やや感情を孕んだ“釘刺し”だった。
面談が終わり、廊下に出ると、ちょうど階段下にいたエリスがスターレインを見つけて、軽く手を振った。
「お疲れさま、スターレイン先生。……呼び出しだったみたいだね」
その言い方は柔らかかったが、すべてを見通しているようでもあった。
スターレインが何も言わないまま頷くと、エリスは少しだけ近づき、目線を合わせるようにして微笑んだ。
「大丈夫。あなたは間違ってないよ」
「……わたしは、報告すべき相手を間違えました」
「でも、“誰が動けるか”を見て判断しただけでしょう?」
エリスの声には、責める響きは一切なかった。
「学年が違っても、現場にいて、対応できる人間がいたなら、その人に伝えるのが早い。
私はそう思ってるよ。でも……あの人は、“正しい順番”の方が大事なんだよね」
皮肉でも否定でもない。ただの事実として。
スターレインは、わずかに表情を崩した。




