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第3話:信頼の芽

 フラワーリング魔法学園の南棟にある教員専用食堂は、窓が大きく、陽の光をたっぷりと取り込む設計になっている。

 昼時を迎えると、教師たちが各自の席に散らばり、教壇とは違う、少しだけ緩んだ表情で食事をとる。


 その日の昼。窓際の二人席に、紫と金の対照的な姿が並んでいた。

 スターレインと、エリス。


 食堂の一角。トレイには、白身魚のムニエルと根菜のスープ、焼き立てのパンが並ぶ。

 エリスはフォークを片手に、柔らかく微笑みながらスターレインに声をかけた。


「ねえ、スターレイン先生って……教員採用試験、合格してるの?」


 スターレインは少しだけ視線を上げ、静かに答える。


「……はい。現役ではありませんが、試験は一度で合格しました」


 その瞬間、エリスの瞳がぱっと輝いた。


「えっ、一回で? すごい……!」

 彼女は手を叩いて、素直に拍手した。フォークの先にあった人参がコトンと皿に落ちる。


 スターレインは、その反応に少し驚いた様子でまばたきを一つした。


「……意外、ですか?」


「ううん。なんていうか、完璧すぎて……“何回か落ちててもそれっぽい”って思ってただけ。ほら、そういう人いるでしょ?」


 エリスはくすりと笑いながら、パンをちぎって口に運んだ。

 しばらく咀嚼したのち、ふいに遠い目をする。


「わたしはね……三年、かかったの。三回も落ちて……そのたびに、心が少しずつ削られていった」


 フォークが止まる。スープの表面に光が揺れる。


「講師のまま、担任やって、生徒指導やって……でも、毎月の給与明細を見ては、ため息ついて……。

 “このまま落ち続けたらどうしよう”って、そればかり考えてた。授業のことより、不安の方がずっと大きくて」


 エリスの声は穏やかだったが、その言葉の奥には確かな痛みがあった。


 スターレインは黙って聞いていた。ナイフで魚を切り分ける音だけが、静かに響く。


「……人ってね、隣の人より“少しだけ”良い暮らしをしたいって思う生き物なのよ。

 豪邸とかじゃなくていいの。ただ、“自分が取り残されてない”って、実感したいだけなの」


 言いながら、エリスは再び微笑む。

 その笑みは、どこか壊れやすく、それでも気丈に保たれたものだった。


 スターレインは、魚の身をひと口だけ口に運び、飲み込んでから、低く静かな声で応じた。


「……競争心は、生きる上で必要なものです。

 ただし、それが“他人の暮らし”を基準にするのであれば、それは終わりのない誤差にしかなりません」


 エリスは目を細める。


「相変わらず、きっぱりと言うのね」


「わたしは、教職を“生活の手段”としてではなく、“制度の中で正しく機能する存在”として扱っています。

 給与も、立場も、それに伴う義務と権限の一部です」


「うん、そうだと思う。でもね……その考え、わたしは少しだけ、うらやましい」


 エリスは小さく肩をすくめ、スープをすする。


 昼の光が、二人の対照を際立たせていた。

 一人は、制度と秩序のもとに生きる現実主義者。

 一人は、感情と人間の揺れを信じる共感主義者。


 けれど、トレイの上にある食事は、同じ学食の温もりを宿している。

 そして、食堂の窓からは、遠くに花壇のある中庭が見えていた。



 昼食を終えた二人のトレイはすでに片隅へ寄せられ、スターレインとエリスは未だその席に留まっていた。


 フォークを置き、手を組んだまま、スターレインが静かに問う。


「……徳治主義の生徒対応。あれは、教員採用試験に合格してからできるようになったものですか?」


 それは、知的好奇心ではなかった。

 論理的な整合性を確認するための、冷静な問いだった。


 エリスは少しだけ首を傾げ、次いで首を横に振った。


「違うよ。それは、合格前からやってた」

 答えは即答だった。わずかな迷いもなかった。


「講師時代、つまり非正規の頃から、わたしは今と同じような指導をしてた。

 ううん、むしろ“してなきゃいけなかった”って言う方が近いかも」


 その言葉に、スターレインは目を伏せた。

 エリスの声は柔らかいが、その中には冷たい現実の影があった。


「だってね、教員って……自然に徳治的な対応ができないと、子どもに相手にされないの。

 “わかってくれる先生”って思われなきゃ、教室で空気になるか、敵になるかのどっちか」


「……それは、理想ではなく、実際の運用として必要な資質ということでしょうか」


「うん、そう。理想論じゃなくて、ただの“生存戦略”よ」


 エリスは笑った。けれど、その笑みに浮かぶのは、長年の経験に裏打ちされた苦味だった。


 スターレインは、しばし無言だった。

 そのまま、テーブルの上に置いた紙ナプキンの角を指先で整えながら、沈思するように言葉を続けた。


「……わたしは、授業だけなら、完璧にこなせます。ですが……担任を持つと、崩れ始めるのではないかと、自分でも思います」


 それは珍しく、自己評価という名の不確定な仮説だった。


 エリスは、やはり笑みを浮かべた。今度は、どこか納得したように。


「わかるよ。実際、あなたの授業は完璧だった。構造も、導線も、生徒のつまずきポイントも全部計算されてた」


 だが、そのまま彼女は言葉の調子を少しだけ落とした。


「……でも、担任になると、子どもたちは“制度の中の生徒”じゃなくなる。

 一年間、“常識の通じない相手”と向き合い続けるってことになるの。

 宿題を出さない。約束を破る。嘘をつく。ものを隠す。泣きわめく。逃げる」


 エリスは、自分の過去を思い出すように言葉を継いだ。


「そのときにね、正論だけで動いてると、壊れるのよ。“どうして守らないの?”が“どうして通じないの?”に変わっていく。

 でも、信頼があれば、子どもたちは“聞こう”とはする。守れなくても、耳は向けてくれる。

 教室は、信頼がなければ成立しない空間なのよ」


 スターレインは、その言葉を静かに受け止めた。

 目を伏せ、呼吸を一つ置いてから、呟くように言う。


「……つまり、正論は、“信頼”の上にしか立たない」


「そう。順番を間違えると、どれだけ正しくても届かない。

 それに、子どもってね、意外とよく見てる。“この先生は、どこまで寄り添ってくれるか”って、ちゃんと見抜くの」


 そこまで語ったエリスは、ようやく背もたれに身体を預け、小さく息を吐いた。

 そして、微笑む。まるで、幾度もその“届かなかった正論”を超えてきた者のように。


「スターレイン先生、あなたは論理の人。でも、あなたみたいな人が、少しずつでも信頼を築いていったら……すごく、強い担任になると思う」


 スターレインはその言葉に反応せず、ただ視線を遠くの中庭に向けていた。


 陽光の先、校舎の角には、二人の生徒が花壇に水をやっている姿が見える。

 理屈では説明できない動機と、根拠のない行動――

 それらがこの空間では“生きている”。


 ――スターレインはゆっくりと目を閉じた。


 この場所に、自分はどこまで根を下ろせるのか。

 制度の中で育ってきた者が、制度を超えて人に向き合う日が来るのか。


 答えはまだ、霧の向こうにあった。



 それは、静かな波紋のように始まった。


 午後の召喚魔法の授業――教室に魔法陣が描かれ、教材の精霊図が配られていく中、ただ一人、明確にその流れに逆らう生徒がいた。


 椅子に座ってはいるが、机には教科書もノートも出さず、視線も合わせない。

 問いかけにも返答はなく、顔を伏せたまま動かない。


 五年生、男子。名前は記録にあるが、目の前の彼は、あらゆる記号から逸脱していた。


 


 教室の空気が微かにざわつく。

 だがスターレインは、一切動揺を見せず、何事もないように授業を開始した。


「本日は、“意志を持たない召喚陣”と“意志を持たせる召喚陣”の違いを観察してもらいます。まずは、先週と同じグループに分かれてください」


 黒板に整然と書かれていく構文、魔法陣の分割式。

 生徒たちは慣れた様子で作業に入り、教室内に紙と魔力の擦れる音が響き始める。


 だが、あの少年だけは、最初の一秒から最後の一秒まで、沈黙の海の中にいた。


 


 スターレインは、仮面のように整った笑顔のまま教室を巡回する。

 誰もが“気にしていないふり”をしているが、視線の端には少年の姿が常に映っている。


 五分後、スターレインは彼の机の横に立ち、静かにしゃがんだ。

 周囲の生徒は作業に集中していたが、数名の手がわずかに止まる。


「……困っていることがあれば、教えてください。無理に言葉にしなくても結構です。

 ただ、わたしは、あなたの立場を理解しようとしています」


 返答はなかった。目線も上がらない。

 だが、それでも彼女は語調を変えず、三つの短い言葉だけを追加した。


「――ここにいますから」


 それだけ告げて、再び教室全体を巡回する。

 作業が進み、召喚の光がちらほらと立ち上りはじめる中、彼は最後まで何もせず、何も語らず、そのままチャイムを迎えた。


 


 放課後の職員室。

 エリスが資料を整理していると、スターレインが静かに近づいてきた。


「……本日の授業、生徒一名が一切の反応を示しませんでした。授業は成立したとは言えません」


 報告とも、自己反省ともつかないその言葉に、エリスはふと微笑む。


「ううん。むしろ、あなたの対応、すごく良かったと思うよ」


 スターレインは、珍しくまばたきを一つだけした。


「……肯定される理由が、よくわかりません」


「叱らなかったから。じゃないよ」


 エリスはそう前置きして、スターレインの目を真っ直ぐに見つめた。


「“叱るより先に、話を聞こうとした”。それが一番、大事な対応だった。

 あの子は今日、あなたを“話を聞いてくれる先生”だと認識した。それだけで、十分なのよ」


「……ですが、行動に変化は見られませんでした。

 それを“成果”と呼ぶには、やや根拠が薄いのでは?」


「違うよ、スターレイン先生。見てないようで、生徒たちは“全部”見てるの。

 今日のあなたの対応を、周囲の子たちがどう思ったか――それが、次の授業を決めるの」


 エリスは、椅子にもたれながら指を立てた。


「これから先、授業が成立しないこともあるでしょう。暴言も、無視も、突発行動も出る。

 でも、生徒たちはあなたを見限らない。なぜなら――」


 そこで、ふっと笑みを深めて、わずかに肩をすくめた。


「……顔も、美人だからね」


「…………」


「えっ、無視?」


「……反応すべきではないと判断しました」


「そこは笑ってくれてもよかったのに〜」


 やりとりは軽妙だったが、エリスの言葉には確かな真理が宿っていた。

 信頼とは、理由ではなく、選択である。

 正しいから信じるのではなく、“信じてよさそうだ”と思わせる誰かの姿勢によって、生まれるもの。


 そして今日――その芽は、確かに教室に植えられていた。


 


 スターレインは黙って席に戻り、次の授業記録を開いた。

 その指先に迷いはない。だが、ほんのわずか、動きは柔らかかった。

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