第2話:学び合い
午後の陽が傾きはじめた頃、講義棟三階の教室には、ざわめきと熱気があった。
魔導理論の黒板は使用されておらず、教室の中央にはいくつもの小さな円形陣が描かれている。机と椅子は壁際に寄せられ、広く取られた床面では、生徒たちが自由に移動しながら、何やら盛んにやり取りをしていた。
スターレインは教室の隅、扉脇の壁に寄りかかるように立っていた。腕を組み、無言のままその光景を観察している。
そこに「教師」はいた。けれど、それは“前に立って語る者”ではなかった。
エリスは教室内をゆっくりと回りながら、生徒たちの会話に耳を傾け、時折は笑い、頷き、必要があれば膝をついて同じ目線で語っていた。
「じゃあこの術式、どうしてこっちの式より成功率が高くなると思う?」
「えっと、たぶん魔力の伝導角度が……」
「惜しい。誰か、彼にヒントあげられる?」
その言葉に応じて、近くの生徒が自然と輪に加わる。
教科書は誰も開いていない。けれど、生徒たちは正確な語彙で魔法理論を交わし合っていた。
――学び合い、という形式。だが、それは形だけのものではなかった。
別の場所では、一人の生徒が呆然と立ち尽くしている。表情は不安に満ち、手元の魔導書も開かれていない。
その様子にエリスはすぐさま気づき、近くにいた別の生徒に声をかけた。
「ねえ、彼、少し迷ってるみたい。よかったら隣で説明してあげてくれる?」
「え? ……あ、うん、やってみる」
たったそれだけの声かけで、輪の中に“余白”が生まれる。
孤立していた生徒はやがて小さく頷き、隣のペースに合わせて話を聞き始めた。
スターレインは、静かに目を伏せた。
教員が主語にならず、生徒同士が“自然に機能する群体”として動いている。
(……これは、制度ではなく、“エリス”という個人が成立させている構造)
客観的に見れば、授業設計としての再現性は極めて低い。
生徒の人間関係、空気感、信頼値、すべてが“彼女”に依存している。
スターレインは己の精神を内側からなぞるように思考した。
――自分でも、できる。仮面さえ被れば。
柔らかい声色、丁寧な口調、笑顔の演技、生徒の名前を憶えて、距離を詰める。
機械的に模倣することは可能だ。教師として必要な統率と支援、マネジメントの手法も心得ている。
だが、長くはもたない。
仮面の裏で“自分”がすり減る。
なぜならスターレインは“構造とルール”を信じて教壇に立つ者であり、人の情動や共感に“寄り添う”ことは信条ではないからだ。
(……彼女には、向いている。それは、たしかに間違いない)
スターレインは再びエリスの姿に目をやる。
笑顔で生徒に頷きかけるその横顔には、威圧も虚飾もなかった。ただ、信じる者の静かなまなざしだけがあった。
(生徒たちにとって、“正しい教育”とは、こういう形なのだろう)
その結論に達することは、敗北ではない。
ただ、違いを認めたというだけのことだ。
スターレインは小さく息を吐き、背筋を伸ばした。
――やがてこの教室を出たとき、自分はまた、別の現場で、別の構造の中に立ち戻る。
それでいい。それが、自分のスタイルだ。
しかし、今この場では。
「……“彼女”の空間として、よく機能している。感情論抜きで、見事な構築」
壁際で呟いた言葉は誰にも届かない。
けれど、それは確かな評価であり、真実だった。
翌朝、召喚魔法演習室の天井に吊るされた魔導灯が、まだ朝露の匂いを残す空気を白く照らしていた。
五年生の生徒たちが次々と入室し、机と杖を整えながら、誰からともなく私語を交わし始める。
その中心に立つのは、紫のとんがり帽子を被った静かな影――スターレイン。
その横壁、教壇の陰に目を凝らせば、見慣れた金髪の女教員が腕を組んで立っていた。
エリス。闇魔法科の担当教員にして、共感と包容の教育を信条とする徳治主義の体現者。
今日は“観察”という名目で、スターレインの初授業を見に来ている。
――だからこそ、スターレインは“完璧に演じる”ことを選んでいた。
「皆さん、おはようございます。今日の召喚魔法は“実践の構造”を学びます」
声は柔らかく、語尾まで丁寧に整えられていた。
間の取り方、視線の流し方、板書のリズム、すべてが精緻に“エリス風”である。
まず、生徒たちを四人一組のグループに分け、それぞれに異なる召喚術式を配布する。
教材の魔法陣には、初歩的な呼び出し要素と、少しの“エラー”が意図的に仕込まれていた。
「これは、わたしが作成した召喚陣です。ただし、少しだけ“不完全”です。皆さん自身の知識と対話で、“正しい式”を導いてみてください」
机を離れて歩き回り、各グループの会話にそっと耳を傾ける。
困っている生徒には、あくまでヒントだけを渡し、解答を指示しない。
グループ内で知識の差があると見れば、さりげなく理解度の高い生徒に接近し、こう促す。
「彼、少し迷っているようですね。説明をお願いできますか?」
「え、あ、はい……えっと……うん、やってみます」
生徒同士の言葉が少しずつ連なり、小さな解決が教室のそこかしこで芽吹いていく。
スターレインは、あくまで“場の保護者”として立ち回り、自らが前に出ることは決してしなかった。
その背中を、エリスはじっと見つめていた。
目元には驚きの色すら浮かべている。
生徒の一人が召喚に成功し、ほのかに光を纏った小型精霊が机上に現れたとき、教室全体から自然な拍手が起こった。
「よくできました。すばらしいです」
静かな一言で、全体がひとつにまとまる。
まさに、仮面としてのエリスの完成された再現だった。
授業終了後、教室が片付き、生徒たちが退出していくのを見送ると、エリスがゆっくりとスターレインに歩み寄った。
「……ねえ、今の授業。完璧だったよ」
その声には、感嘆と、ほんの少しの戸惑いが混じっていた。
スターレインは帽子を脱ぐことなく、淡々と応じる。
「ありがとうございます。全て、観察されている前提で設計しました」
「うん。わかってた。……でも、“あの子たちの今”をちゃんと見てた。そこが一番すごかった」
エリスの目が、少しだけ真剣になる。
「スターレイン先生。“法治”で授業を組み立ててたら、今日は絶対に失敗してたよ。
正しい理論も、整った秩序も、生徒の心がついてきてなかったら、意味を持たないの」
スターレインは無言のまま、視線だけを窓の外に向けた。
春先の光が、若葉の輪郭を淡く浮かび上がらせている。
「……では、私の指導方針は、適切ではなかったと?」
「ううん。違う。“信頼関係があれば、法治でもうまくいく”。でもそれは、“今”じゃない。
“今”のあの子たちは、まだスターレイン先生を知っていない。
だから、自分に合った授業をしたいなら、まずは時間をかけて……“信頼”という土台を作ってからにしてね」
言葉は優しかったが、本質的には警告だった。
エリスは、わずかに笑みを深める。
「……自分のためにも、子どもたちのためにも。
あと、これは余計なお世話だけど――管理職、全員あなたのこと監視してるからね」
その微笑みは、陽だまりのように温かく、そして底知れない。
スターレインは軽く頷いた。
「……理解しました。次の授業も、“演技”は継続します」
「それも、また正解のひとつ。仮面は悪くないよ。演技は、生徒のためにもなるからね。……ただ、時々は“素顔”を見せてあげてね。ほんの少しでもいいから」
その言葉に、スターレインは答えなかった。
ただ、小さく目を伏せたまま、教室の片隅に残る召喚魔法陣を見つめていた。
――そこに、微かな光だけが、まだ揺れていた。




