第1話:フラワーリング魔法学園
花々が揺れる四季咲きの中庭を抜けて、石造りの塔へ続く回廊に、一人の影が静かに足を踏み入れた。
紫のとんがり帽子に、同色のドレス風の衣装。風に靡く銀灰のロングヘアが、その姿に儀式的な気配を与えている。
フラワーリング魔法学園。王都に程近い場所に位置するこの名門校では、ここ数ヶ月、異常なほどの教員退職が相次いでいた。
労働時間、職務内容、生徒対応、上層部の干渉――すべてが限界に達し、多くの魔法教師たちは「己の魔力を守るために」教壇を降りた。
残されたのは、疲弊した教員と、穴埋めに招かれた数名の非常勤講師たち。その中のひとりが、彼女――スターレインである。
石造りの執務室。光が届かぬ書斎の奥、かつての教え子を迎える人物が立っていた。
白髪に近い銀の髭、歳月を知る瞳。学園長・アルベル・フロラリスは、その老いた身体に満面の笑みを湛え、杖を軽く振る。
「いやあ……スターレイン先生、まさか本当に来てくれるとは……。あの“冷淡な星霜”と呼ばれたあなたがねぇ。嬉しい、実に嬉しいよ」
その笑顔に対し、彼女は一切の表情を動かさなかった。帽子を取ることもなく、ただ目を伏せる。
「非常勤契約は、四ヶ月単位でしょうか。書類に記載されていた内容と齟齬があるようなら、訂正をお願いします」
「相変わらずですねぇ……。でも、それが君だ。変わっていなくて安心しましたよ」
学園長は笑いながら、机上に置かれた一枚の紙を手に取った。古びた封筒から抜き出された、それは――彼女の履歴書である。
「ふむふむ……ああ、これはこれは。教員採用試験、ちゃんと……“合格”してるんですねぇ」
わずかに意外そうな声だった。
スターレインは静かに瞳を伏せたまま、小さく息をついた。
「……当たり前のことです。公的な教育機関に籍を置く以上、正規免許は必要ですから」
「いや、てっきり……そういう手続きは踏まずに、“特例枠”か何かかと……君の実力なら、そういう道でも通ると思っていたのでね」
「実力と資格の間にあるのは、“信頼性”という数値です。私は、そこまで甘くないつもりですから」
静かに、しかし鋭く。スターレインの声は、湿った空気を斬るように響いた。
学園長は鼻を鳴らし、まるで照れたように微笑んだ。
そして、部屋の窓をわずかに開けると、遠くに見える荒れた教室棟に目を向ける。
古い振り子時計の音が、学園長室の静寂を切り取るように響いていた。
机の向こう側、老学園長・アルベル・フロラリスは、眼鏡越しに資料へと目を落とし、控えめに笑みを浮かべている。
スターレインは椅子に座ったまま、杖を膝に置き、無言でそれを見ていた。彼女の瞳には、場の空気も、言葉も、価値判断も映らない。ただ職務としての沈黙が、そこにあるだけだ。
「では――改めてになりますが、四か月間、どうぞよろしくお願いしますよ、スターレイン先生」
「……契約期間内であれば、必要な指導業務は履行します」
抑揚のない返答だった。だが、それで十分だと学園長は思っていた。
「実のところ、非常勤講師の中では破格の人材なんですよ。冒険者としての実績、戦場での統率力、魔法技能……どれも申し分ない。履歴書を見て、私はほっと胸を撫で下ろしましたよ」
その口調は穏やかだったが、言葉の奥に“他の候補者に期待できなかった”という本音が滲んでいた。
「さて、担当していただくのは五年生の“召喚魔法”になります」
学園長は一枚のスケジュール表を指で叩きながら、ふと表情を曇らせた。
そして、皮肉を込めた笑みを、苦い茶のように含んだ。
「……この授業、担当者が不足していましてね。というより、制度自体が問題だったのです」
スターレインの紫水晶の瞳が、わずかに学園長の目を見た。それは、語れ、という合図だった。
「召喚魔法という分野は、本来なら高等教育課程で独立科目とすべき内容でした。しかし、五年生に“無理やりカリキュラムとして押し込んだ”のです。形式上は上級課程ですが、教員配置も教材も制度的に整っていない」
「……つまり、現場の教員が責任を取らされたと」
「まさに。その制度設計をした上層部は、すでに退職済みです。残された教員は、無理な召喚魔法の実習指導で心を壊し、ある者は離任し、ある者は……入院中です」
老いた学園長の声には、痛みと諦めと、わずかな怒りが混ざっていた。
スターレインは視線を落とし、短く呟いた。
「……制度が人を殺す。魔法よりも簡単な呪いですね」
「君がそれをどう捉えるかは任せます。だが、必要なのは現実を処理できる者だ。生徒たちの未来に“無責任な授業”を続けさせるわけにはいかない」
学園長は深く頷くと、手元の小さな呼び鈴を鳴らした。
「では、校内の案内を頼もう。今回の着任にあたって、あなたに最も適した案内係を割り当てました」
まもなくして、木扉が軽やかに開いた。
「失礼しますね。スターレイン先生、お迎えにあがりました」
そう言って入ってきたのは、華やかで凛とした一人の女性教員だった。
肩まで流れる金髪は、わずかにカールの入った艶やかな波を描いている。
赤・青・白の三色を巧みに織り交ぜた制服は、威厳を持ちつつも親しみやすく、洗練された裁縫が随所に光っていた。
整った顔立ちには品格があり、笑顔は明るく柔らかい。けれどその奥に、洞察力の鋭さと、人間関係の機微を見抜く冷静さが潜んでいる。
胸元には“闇魔法科”の紋章――半月と蔦の銀刺繍が煌めいていた。
彼女こそ、三年生の担任を務める闇魔法の教員、エリス先生。
徳治的な共感教育を信条とし、生徒からも同僚からも信頼されているが――それは裏を返せば、全員の内面に干渉できる者という意味でもあった。
「案内係を希望したのは、わたしからです。スターレイン先生、よかったら校内、歩きながらお話ししませんか?」
「……目的地までの所要時間は?」
「およそ、談笑込みで二十七分。無言なら十四分くらいです」
彼女はさらりと、数字まで用意していた。スターレインはわずかに視線を外す。
「……どちらでも構いません。ただし、道を間違えない限りは」
「もちろん。私は“あなたを迷わせる”ために来たんじゃないから」
微笑んだエリスの言葉には、冗談とも真実とも取れる響きがあった。
フラワーリング魔法学園の石造りの廊下には、午後の光が差し込んでいた。
アーチ状の窓から見える中庭には、風に揺れる薬草畑と、魔導生物用の小屋。壁には歴代の卒業生の肖像が整然と並ぶ。
その廊下を、スターレインとエリスは並んで歩いていた。
先導するエリスの歩幅は丁寧で、無駄がない。けれど、その足取りには余裕と柔らかさがあった。
対するスターレインは無言のまま、視線だけで周囲を観察している。杖は背中に収め、帽子のつばが影を落としている。
「――エリス先生っ、おはようございます!」
廊下を曲がった先で、生徒が二人、駆け足でこちらに向かってきた。
一人は魔導植物を抱えた三年生の女子。もう一人は小柄な男子で、杖の先に小さな風精霊を連れている。
「おはよう、元気そうね。植物は温室じゃなくて、ちゃんと自分の部屋で育てるのよ?」
「はーいっ!」
エリスは笑顔で応じ、頭を軽く撫でる。生徒たちはそれだけで嬉しそうに小さく跳ねた。
まるで、彼女の言葉が肯定そのもののように響いていた。
――慕われている。明らかに。
スターレインは足を止めず、その光景を無言で見つめていた。
エリスのような“共感を媒介にする教育者”は、確かに一定の力を持つ。それは事実だ。
「この子たち、まだ朝の挨拶も不安定だった頃が嘘みたい。……やっぱり、変わっていくんですよ。見てくれる人がいれば」
エリスは微笑を崩さぬまま、ふと隣のスターレインを見やった。
「スターレイン先生は、生徒を“育てたい”って思ったこと、ないですか?」
問いは唐突ではあったが、悪意はなかった。探るような視線もなかった。ただ、純粋な問いかけとして。
スターレインは即答はせず、数歩、沈黙のまま歩を進めた。
そのあと、わずかに口を開いた。
「……教育とは、“制度を運用すること”です。育てるかどうかは、生徒が選ぶことですから」
「なるほどね。それも、ひとつの信念だと思うわ」
エリスは頷いたが、すぐに言葉を継いだ。
「でも私は……教育って、“未来を創る仕事”だと思ってる。国の未来、人の未来……ちゃんと“想って、育てる”ことが、何より大事だって」
その語りには、自負と熱意が込められていた。
スターレインは、無表情のまま軽く目を伏せた。
しばらく歩いた先、講義棟の中庭を横切ろうとしたとき、小さな騒動が起きていた。
「そこの二人、外靴のままで術練習エリアに立ち入ってたでしょ? 規則違反よ」
一人の上級生が、後輩らしき二人を注意していた。だが、相手の少年は言い訳がましく呟いた。
「でも、先生には急ぎで来いって言われて……」
スターレインが一歩、足を止める。即座に反応したわけではない。ただ、視線だけが鋭く揺れた。
「……現行規則、術練区域への立ち入りには“靴の履き替え”が必須。理由の如何を問わず、違反は違反です」
冷静な声だった。誰に言ったわけでもなく、ただ事実を述べた。
しかし、横にいたエリスが軽く微笑んだ。
「そうね。でも……先生に呼ばれたのなら、私は見逃してあげたいな。子どもは間違えるし、ルールよりも、そこにある気持ちのほうが大事な時もあるから」
スターレインは沈黙したまま、再び歩き出した。
エリスもそれに歩調を合わせる。
――合わない。構造的に。
スターレインは心の中で結論を下した。
この教員は、生徒の感情を軸に動く。共感を基盤に、ルールを“選択的に運用”する。
それは、“法”の下に人を統治する思想とは、本質的に相容れない。
だが。
(……間違っているわけでは、ない)
生徒に慕われ、教育効果も実際に現れている。
少なくとも、スターレインの教育観よりも“共感可能な成果”としては強い。
彼女は自分が正しいとは思っていない。ただ、正しく動く“構造”の中で、最も効率の良い選択をしているだけだ。
対するエリスは、“人そのもの”を信じている。
「スターレイン先生」
エリスがふと立ち止まり、彼女を見た。
「あなたの教育観、わたし、好きだよ。……でも、たぶん合わないとも思ってる。だから、遠慮なく、時々ぶつかりましょう?」
その笑顔は眩しかった。強く、まっすぐで、人間くさくて――
スターレインは、わずかにまばたきをひとつだけして、小さく頷いた。
「……理解しました。次は、召喚魔法室ですか?」
「ええ。最果ての研究棟。構造的に、いろいろ面倒な場所よ」
ふたりの足音が、再び廊下に消えていく。
思想は合わずとも、共に歩く距離は、確かにそこにあった。




